お文の憂鬱・2

前回のあらすじ


 横田屋を出た二人は新橋を渡り、柳原通りから両国橋へと歩いていた。浅草御門を通り過ぎる頃、広くひらけた場所に出る。

 明暦三年、江戸の約六割を焼き尽くすほどの大火事が起こった。通称・振袖火事と呼ばれるこの火事で、十万人の人々が犠牲となったとも言われている。
 その火事以降、幕府は火災の延焼を防ぐために、道幅を広くした空き地を設けた。浅草、上野、下谷などの他に、大川に架けられた両国橋の東西にも設けられた。
 広い空き地となっており、いつからかその場所に、芝居小屋や茶店、屋台などの露天商が立ち並び、江戸一番の盛り場となった。

「仕事でしょっちゅう両国橋を行ったり来たりしてるけど、どこにもよったことなかったね。ほら、見て。大道芸してる。あ、あっちには占い。たっくさんのお店があるのねぇ」
 お凛が感心したように言った。

「今まで、人が多くて歩くのが大変ぐらいにしか思わなかったよ。お竹さんの言ってた茶店は、橋のたもとだって言ってたけど…あ、あすこかね。ほら、お凛。きょろきょろしてると、はぐれるよ」
 興味深そうに周囲を見回しているお凛の袖を引っ張り、お文は、客のお竹から聞いた茶店へと向かった。

 目指す店へ到着すると、店の長床几に腰をかけ、茶汲み娘に団子と茶を注文した。
 ふっくらとした頬にクリッとした眼が可愛らしい娘だった。黄八丈の格子柄に、萌黄色の前垂れがよく似合っている。この店の看板娘といったところだろうか。

「あぁ、いい匂い」 
 お凜は鼻をひくつかせた。

「ほんとだ」
 お文も深く息を吸い込んだ。醤油と味噌を炙る香ばしい匂いが胃袋を刺激してくる。

「それにしても、二十本とはすごいね」
 お文が改めておきぬの大食いを感心した。

「でも、おきぬさんならちょっと納得かも。だって、ほら。おきぬさんおっきいもん」

 横田屋の女中頭・おきぬは上背があり、横幅もがっちりの骨太な体格だ。二人はおきぬの風貌を思い出し、顔を見合わせて笑った。

「はい、お待ちどおさま」

 ほどなくして注文の品が運ばれてきた。団子から温かそうな湯気がほかほかとたっている。二人は「おいしそうだね」と言いながら、ひと口頬張った。甘じょっぱい味が口の中いっぱいに広がり、二人はハフハフと息を吐きながら、あっという間に平らげた。

 お文が二十八の歳、かざり職人だった夫の鍈治が火事で死んだ。それ以来、お凛と生きるために、毎日必死だった。それこそ、二人でゆっくり団子を食べる暇もないほどだった。

 お凛が「あたしもおっ母さんと同じ髪結いになる」と、言い出したのは肩上げが取れて間もない頃だった。それから四年―。

”幸せってこういうことなのかね”
 お文は、お凛と一緒に団子を食べられる幸せをしみじみと噛みしめていた。

 川沿いに葦簀を張って簡易に作られた茶店は、時おり大川からの風が入ってくる。熱々の団子を食べて火照った体に心地いい。

 茶を飲み終えひと息つくと、お文は大川へ視線を投げた。猪牙舟や屋根船うろうろ舟などの様々な船がのんびりと川面を滑っていく。
 夏になると毎夜、花火が打ち上げられ、花火見物の人や涼を求める人々で川辺も川面も、今よりずっと賑やかになる。

 団子を食べ終えたお凛が、看板娘を呼び止めた。

「すみません、お土産にお団子二十本お願いします」
「二十本て。そんなに買ってどうすんのさ」
「銀四郎さんと長屋のみんなに」
「長屋のみんなはともかく……あいつに買って行く必要はないだろ。あんな働きもしない役立たずのごく潰しに」
「また、そういう言い方して。家の中のことをやってくれているじゃない」
 お文の手厳しい物言いに、お凜は頬をふくらませて反論した。
「はん。家ん中のことったってね。逆に仕事を増やしてるようなもんだよ、あれじゃ」
「最近はちゃんとやってくれていて助かるでしょ。お菜も、鶴松おじさんに作り方を教わってるみたいだし。前と比べたら、格段においしくなったもの。洗い物は長屋のおかみさんたちに教わってるって」

 お凛の言葉に、お文はため息をひとつ吐いた。

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 縄のれんをくぐると、手狭な店はすでに常連でいっぱいになっていた。

「いらっしゃ……あ、なんだ。姉ちゃんか」
 板場から弟の鶴松が顔を出す。
「なんだとはご挨拶だね。一応、客だよ。あたしも」
 お文は不機嫌さを滲ませた声を出した。
「また銀四郎と何かあったのかよ」
 鶴松の問いかけを無視して
「ぬる燗一本」と、告げた。

 大工の八五郎と左官屋の新吉が座る長床几の端に座らせてもらうお文だった。二人ともお文と同じ長屋の住人だ。

「ちょっと端っこに座らせてもらうよ」
「あいよ。新吉、もちっとそっちぃ寄んな」
「へいへい」
 新吉は尻をずらし、席を空けた。
「お文さん、これ食ってみな。つるまっちゃんの新作らしいよ」
 新吉が小皿をお文に寄越した。
 小皿の上には、灰色の切り身が乗っている。
「なんだい、これ」
「へへへ、食べてからのお楽しみ」
 新吉と八五郎はにやにやしている。
 恐る恐る灰色の切り身を箸でひと切れつかみ、口に入れた。
「ん、これはぁ……かまぼこ……かい?」
「ご名答ぉ」
 新吉がにぃっと笑った。
「うめぇよなぁ。鰯のかまぼこだってぇんだから、恐れ入り谷の鬼子母神よ。俺も新吉も鰯なんざ、年中食ってるけどよ。かまぼこはお初だぜ」
 八五郎がまるで自分が作ったように誇らしげに言った。
「へぇ。鰯のかまぼこなんて、あたしも初めて食べたよ。うちの夕餉も鰯だったっけ。なんだい。今日は、鰯しか売ってなかったのかねぇ」
 お文の言葉に、ちろりに入った酒と突き出しの小鉢を持ってきた鶴松が答えた。
「政治郎さんが鰯を大量に余らせて困ってたから。困った時はお互い様だと思って、俺が全部引き取ったんだよ。銀四郎にも少し分けてやった」
「あのバカ。鶴よぉ、とんだ世話ぁかけちまってすまねぇ」
 八五郎が詫びた。政治郎は、八五郎の娘のおりつの夫だ。つまり、八五郎にとっては義理の息子になる。
 棒手振の魚屋をやっており、お文たちが暮らす相生町界隈へ売りに来る。
「いえ。タダ同然で売ってもらえたんで。こっちこそ助かりましたよ。それより、かまぼこの板。八五郎さんに杉板を分けてもらっちゃって。手間かけさせて、すみませんでした」
「なぁに、余ってた杉を切っただけだ。あんなの手間でも何でもねぇよ」
 八五郎は笑ってそう言うと、猪口の酒をぐいっと飲み干した。

 お文の父の竹蔵は表店を借りて、一膳飯屋「蔵屋」を営んでいた。今は弟の鶴松が後を継いでいる。鶴松は、子供の頃から竹蔵の手伝いをするのが好きな子供だった。
 手習いに通っている七、八歳の頃から板場に入って、洗い物や野菜の皮むきなどを嬉々としてやっていた。
 そんな鶴松の姿を見て、お文は、あいつ店の手伝いなんかよくやってられる、と思いながら過ごしていた。
 一方お文は、料理は嫌いではなかったが、外を走り回って遊ぶ方が好きな子供だった。実際、手習いを終えるとガキ大将よろしく、近所の子供を引き連れ、暗くなるまで走り回っていた。

 お文が興味をもったのは、母のお光の髪結いの仕事だった。元結と櫛だけで、すいすいと髪を結いあげる姿に眼を奪われた。

 ―おっ母さんの手はまるで手妻遣いみたいだ―

 お文は、お光の鮮やかな手の動きに心を奪われた。
 自分もいつかおっ母さんのような手妻遣いになりたいと、お光の後にくっついて歩き、手伝い仕事をしながら少しずつ技術を覚えていった。
 お文が十一になる頃だった。
 お光もお文の熱意を感じ、櫛の扱い方から剃刀の当て方まで、自分が教えられることは全て教えた。
「いいかい、お文。髪結いってのは、ただ髪を結えばいいってもんじゃない。お客様は神を結って、気持ちをすっきりさせたいんだよ。あたしらは、その手伝いをさせてもらってるんだからね。一人一人、真心を込めなきゃいけないよ」
 お光の言葉は、四十になった今も、お文の胸の真ん中にくっきりと刻まれている。

「そういえば、おりっちゃんは元気? 春坊と秋坊もずいぶん大きくなったんじゃないの?」
「おぉ、元気、元気。たまにこっちに帰って来ちゃ、カカアと一緒んなって口うるせぇこと言ってらぁ。ガキ共も元気だぜ」
「八五郎さんも立派にお爺ちゃんですもんね。いひひ」
 新吉が、からかうように言いながら笑った。
「おうよ。すっかりジジイになっちまった。春政と秋治郎が嫁をもらうまで、俺ぁ現役でいるつもりだぜ」
「いくつまで生きるつもりだよ。春坊は七つで、秋坊はまだ六つじゃねぇか」
 新吉があきれたように言った。八五郎は笑いながら「百まででぇ」と返した。
「孫ってのはやっぱりかわいいのかい?」
 お文が訊ねると、
「そらぁ、もう、かわいいのなんのって。うっかりしたら、てめぇの子供よりもかわいがってるぜ」
 溶けそうな笑顔で答える八五郎だった。
「ふうん。そんなもんかねぇ。自分の子供よりもねぇ」
「お文さんちもそろそろかい?」
「うちは孫どころか祝言もまだ挙げてやしないよ」
「なんでぇ。銀の字も、さっさとガキを作っちまえばお文さんも認めるだろうによ」
 八五郎がとんでもないことを言い出した。
 お文は、
「冗談じゃないよ」と、酒をあおった。
「あたしは認める気なんかないよ。あんな木偶の棒。まともに働きもしないで、髪結いの亭主まんまじゃないか」
「木偶の棒たぁ、また随分だな。飯炊きやなんかを銀の字が一手に引き受けてんだろ」
「大の男が飯炊きしてどうすんだよ。あおしを稼がなきゃしょうがないだろ。八五郎さんのとこで使って……もらえないだろうね。あれじゃ」
「うーん……。大工仕事は合わなそうだよなぁ」
 八五郎が腕を組んで思案する。
 隣で新吉が口を挟む。
「人は見かけによらないって言うじゃねぇですか」
「あいつは見たまんま」
「あ、じゃあ料理人は? つるまっちゃんとこで仕込んでもらうとか」
「けっ。あんな根性なしに務まるもんか」
「お文さんと暮らしてるってだけで充分、根性あると思いますよ……」
「あん? 何か言ったかい」
「あ、いえ。つるまっちゃん、ぬる燗もう一本……じゃなくてもう二本」
 新吉はあたふたと酒を注文した。
「なんでそんなに銀の字を毛嫌いすんのかねぇ。言うほど悪い奴じゃねぇけどなぁ」
 八五郎が不思議そうに首をかしげた。
 お文も不思議だった。
 自分でも時々、何でこんなにイラつくんだろうと思う時がある。
「お凜ちゃんが一生独り身って方がいいのけぇ?」
 

―うっ、それは嫌だ―
―あたしが死んだ後、独りぼっちじゃお凛が不憫で仕方ない―

「それは……ヤだけど」
「だろ? なら、めでてぇじゃねぇか。そりゃ、多少危なっかしいとこはあるけどよぉ。底抜けに人が良くて優しい男だと思うぜ? 銀の字は。うちの春と秋の面倒もよっく見てくれてるってぇ、おりつとカカアが言ってたしよぉ」
「運動はからっきしだって半七が言ってたな、そういや」
 新吉が口を挟む。
「てめぇ、余計なこと言うんじゃねぇ」
 八五郎は慌てて新吉の肩をどついた。
 鶴松が黙ってちろりを二つ置いて行った。
「頭では、お凛が幸せならそれでいいじゃないかって思うんだよ」
 お文は静かに猪口の酒をひと口呑んだ。
「なら……」
「だけど、あいつのへにゃっとした顔を見ると腹が立って仕方ないんだよ。それに、お凜はまだ十六だよ。十六ったらまだ子供だろ? 子供が所帯を持つなんて、ままごと遊びじゃないか」
「おりつは十六で嫁に行ったぜ。親が思うより子供は成長してるもんよ」
「おりっちゃんが嫁に行く時、八五郎さんとおしげさんはどうだった?」
「どうって……カカアは知らねぇけどよ。俺ぁ、おもしろくなかったな」
「やっぱり。嫌だったんだね」
「まあな。政治郎が挨拶に来て、あいつの面ぁ見ても、やたらとむかっ腹が立ってよぉ。こんな野郎がうちのおりつを持って行きやがるのか。ってな」
「だよね。やっぱりそう思うんだね」
「初めはな。でもその後、政治郎とサシで呑みに行ってすっかり気持ちが変わった。あいつの実家は川崎で旅籠を営んでたらしい」
 そこで八五郎は、いったん言葉を斬り、ちろりから酒を注いで、のどを湿らせた。
「あいつが十になる前に、ふた親とも流行り病であっけなく逝っちまったそうだ。その後は親戚の間をたらい回しにされて、辛え思いをしたみてぇだよ」
「そんな小さい時に」
「結局、最後は遠縁の爺さんが引き取って育ててくれたらしいけどな」
「そうだったのかい」
「その爺さんも政治郎が十五ん時におっ死んじまったそうだ。それ以来、あいつは独りで生きてきたってぇのを聞いてな。俺ぁ泣けて仕方なかった」
 その時のことを思い出したのか、八五郎は眼のふちを赤くしていた。
「八五郎さん、涙もろくなりましたもんねぇ。歳ぃとってから」
 そう言う新吉も鼻をすすっている。
「それからは、こいつの親代わりになってやれるのは俺だけだって思えたら急にかわいく思えてよぉ。息子がいなかったし、ちょうどいいやって」
「苦労したんだねぇ。政治郎さん」
 お文も袂で涙をぬぐった。

 そこへ鶴松が小鉢を持って来た。
「おっ、何の肴だよ」
 新吉は嬉しそうに小鉢をのぞき込む。
「鰯の焼き味噌和え」
 鶴松は空いたちろりを下げながらぼそりと言った。
 小鉢の中には、小ぶりの鰯と焼いた味噌を混ぜたものが入っていた。その上に、ぱらりと唐辛子が散らしてある。
 三人はそれを箸でつまみ口に運んだ。
「うめぇ」
「これはぁ、酒が進むね」
「んまい。つるまっちゃん、ぬる燗あと一本」
 焼き味噌の芳ばしい香りの中に、むっちりとした鰯の歯ごたえ。鰯の生臭さを焼き味噌の風味が中和しており、うま味ばかり引き立つ味だった。
 三人はしばらく、鰯、酒、と交互に楽しんだ。
「お文さんよぉ」
 ひとしきり酒と鰯を堪能した後、八五郎が口を開いた。
「一度、銀の字とじっくり話してみたらどうでぇ」
 お文は黙って酒を呑んだ。
「そうですよ。腹割って話してみりゃ、あんげぇ気が合うかもしれねぇですよ」
 新吉も八五郎の加勢をする。
「……そうしてみようかねぇ」
 お文の心がほんの少し動いた。













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