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すーっと消えた『わざわざモヤモヤ』

書こうと思ったから、パソコンを開いたのに、ちょっと時間がたってしまったらスーッと消えてしまった。

わかってはいるものの、記憶って儚いものですね。

奥の方にしまったものを掘り返す感じで、何を書こうとしたか思い出して見ます。多分言いたいことは3つぐらい?いや4つぐらいあったので、その2つを織り交ぜながら書こうと思います。

先ほど、見たかった映画を急ピッチで2つ見ました。
気づかないうちに、私の中でどの映画を見るのかという基準ができていました。

ドキュメンタリーあるいは事実をもとにした作品
自伝的映画
観た後に歯がゆさが残る映画

だいたいこの3つに集約できそうです。
上2つの条件に映画に関しては判別が簡単そうです。

ただ、3つめの観た後に歯がゆさが残る映画に関しては、
まだ見てない状態でどう判断できるかというのと、
なぜわざわざ見た後にモヤモヤが残るものを選んでしまっているのか、
それに答えることで、誰かの映画観を揺らげる可能性がありそうなので話してみます。

まず、観ていない映画の歯がゆさを判断するには?
大したことではなく、人間の問題を、そしてまだ歴史になっていない現代の問題を扱っている作品は、だいたい観た後に歯がゆくなります。

それは、人間が抱えている問題にそもそも『解決する』ということがないからだと考えています。そして、まだ結論が出ていない問題に対して、結末はないのです。

そしてなぜわざわざモヤモヤしたがるのかというと、
歯がゆさというこの無力感がある程度私にとっての真実だと思うからです。

強くてたくましい英雄のストーリーを見れば、自分にもそんな力が与えられた錯覚を覚え、異次元に飛べばもしかしたらこの世界にもそんな場所が存在しているのかもしれない。影響されやすい私は、すぐにそう感じてしまうたちだし、その想像力やワクワク感は大切です。

ただ、同時に世界にとって無力な私もいます。
いくら自由に発言できるツールがあったって、発信しても何かを変えるほどの力なんてないかもしれない、世界の遠くで起こった問題や、あるいは近くで起こっているけど見えない問題を、私が知ったところで何も変わらないだろう、この現実で対面することは、歯がゆい映画を見たあと結局行き着くところに似た感覚があります。

けど、そういった問題や出来事には目を向けるべきと考えています。
その時に感じる歯がゆさは、今こうして文章を書いている原動力でもあり、何かを伝えたいと心から感じることのできる機会でもあります。

それを大切にしたいと思います。

確かに、今すぐに答えが出ない、1つの解決策が見出せない問題を考えることはきついです。意識しなければ私は避け続けるでしょう。そもそれだと何かを創作したり、書いたりすることもなく沈黙して生き続けるでしょう。

最後に、
私ができるもっとも価値のある判断は、受け入れることを続けることだと考えています。相手をわからせてやろうと思えば口論や暴力になり、諦めれば無視です。まずは受け入れなくては何もはじまらないのです。


この記事には具体的な例も欠けているし、細かいことを棚に上げて随分粗い目のざるですくい上げた不完全な話だなあと思っています。完璧な言論があるとは思わないけれど、これでうまく伝わるのか不安な部分があります。(noteにあげるときはだいたいがそうなのですが笑)ですが、スーッと消えていってしまう感覚を消えないうちに残していくには書いて置いておくことが必要だというふうに切り替えました。なので、これも今後何度か手を加えるつもりです。

今日観た映画の1つはこれです。

”自爆テロに向かう二人のパレスチナ人青年を中心にパレスチナ人から見たパレスチナ問題を描く。”(引用、wikipedia)


日本人は歴史持って学んだことがあります。そしてそれが背景は違えど他の国で今起こっていることを、歯がゆく感じます。

そして、この時期だからこそ、大ヒットするわけでもなくもしかしたら採算が合わないかもしれないような映画を配給してくれている会社や映画館てほんと貴重だなとつくづく感じました。ほとんどのサービス業は経営が大変な時期で映画館もクラウドファンディングなどを初めているところがあります。遅ればせながら、今月のお給料で支援しようと思いました。


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