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生きているだけで

こういう、人を愛するとは相手を理解することなのか、といった内容がテーマの映画を観ると必ず思い出す人がいる。

主人公、寧子のエキセントリックさは、確かに理解しがたい。しかし、彼女の中にある感情を自分も感じたことはある。私は、寧子のように向き合わず人に合わせることで逃げることが多かったけれども。そこは、菅田将暉演じる津奈木に共感する部分があった。

そして私は、そういう自分から変わりたいと思っているしそれが難しくて、難しくて、難しくて、寧子のように苦しんだこともある。今もだと思う。

さて冒頭のこの映画のテーマに戻るが、人を好きになることは多分そんなに難しくない。もちろん、人にはよるが。
ただ、愛すること、を定義付けするとなるとどんな人も一気に難易度が上がる。と思う。
正直、そんなに経験がある訳ではないのでそう考えるのか、くらいで聞いてほしい。

思い出す人がいると言ったが、それは大学時代に付き合っていた人。

津奈木と寧子のような関係とはまた違ったし、今思うと、その人は私のことが結局好きじゃなかったんだろうと思っている。
ただ、お互いの不完全な部分をさらけ出して、そんな自分を認めたいがための共依存関係のような、そんな人間関係の作り方は少し彼らと似ていた。
相手が好き、というよりは自我を保つために相手が必要だ、みたいな。
伝わるだろうか。

ただ、私は津奈木のように相手を理解したいと強く思っていたから、本当に好きだったんだと思う。でも、結局理解でききれなくて上手くいかなかったし、相手にもそういう思いは伝わっていなかった。

ここで、人を大事にするとか愛するとは理解をすることなのだろうか、と考えてみる。

結論から言うと、理解したい、という思いや努力は愛情だけど理解しなければ、愛がない訳ではない、と思う。
それは、私は色んなことを経て人を理解するのは無理だと思っているからだ。

厳密に言うと共感は出来るが、同じ人ではない限り同じ気持ちを感じることは無理だ。

一時期、何で自分はこんなに苦しいのに誰も分かってくれないんだ、と思って自分を分かってほしい、自分を分かって、と寧子のように感情に溺れてぐちゃぐちゃになった時もあった。

未だ、それが100%改善したとは言い難いとは思うし、自分を分かってほしいからnoteに文章で自己表現をしているんだとは思う。だけど、100%の理解を得ることは無理だとわかってから少し割り切れるようになった。

それに、理解が愛情に繋がる訳ではないことを
今の自分の、こんな失敗ばかりの自分の周りにもいてくれる人たちから学んだ。

私がぐちゃぐちゃに言うと「よく分からなかった」と言うけど、それでも相手が自分を思い遣ってくれることが分かる人もいる。

忙しい中時間を作って話を聞いてくれる人もいる。

ラインをすると必ず、アドバイスをくれる人もいる。

本当にそれに気付けたことは、前の自分からは想像もつかないくらいの進歩だ。今も、何かないと、自分が保てないみたいな感情になることはあるけど前よりは長引かない。

あとは、もう少し本当の自分自身と素直にちゃんと向き合っていけるようになりたい。

逃げて、ごまかして合わせて、じゃなくて。
誰かが言ったから、ではなくて。

寧子は、苦しんでいたけど自分自身と向き合えていた。それでも変われなくて、変わりたくて苦しんでいた。

側からみると頑張ってないように見えるかもしれないけど、逃げずに向き合うって体力いるからね。

どれだけ大切でも人を100%理解するのは、無理だと割り切っている以上、寧子みたいに自分にだけは理解したい気持ちを変わらず持ち続けていたい。私にとって、嫌いな自分と向き合い続けるのは凄くしんどいことなのだけど。

それが唯一、自分にできる愛情だと思うから。

自分は、自分と一生別れられないのだから。

#生きているだけで愛 #本谷有希子 #趣里 #菅田将暉


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