ある中華屋

「こんな所に中華屋があったのか」

 今日の夕方、道端で『ラーメン・中華屋』という看板を黄色に点灯させる小さな中華屋を見つけて、僕はそう呟かなかった。

 僕は生来独り言の少ない人間であるので、小説の登場人物のように、思ったことをひとりでに呟くことはほとんどない。これはつまり、「こんな所に中華屋があったのか」と心の中で思ったのだ。

 入ってみると、店内はいかにも寂れた中華屋といった具合で、大体の味の見当が付きそうな雰囲気が漂っていた。こういう照明が薄暗くて、どこもかしこも古い油でぬめっていそうな中華屋というのは、どうしてどこも似たような味付けなのだろう。

 店主は白髪頭の、顔がひょろ長い老人だった。彼の頭の形は、ちょうどピーナッツのような形状だった。彼は僕が店に入って来るのに気付いたが、「いらっしゃい」とは言わなかった。ただ黙って、一瞬だけ僕のことをにらみつけて、それからすぐに厨房の外へと歩みだした。水を汲んでくれるらしい。

 彼の足並みは存外素早く、僕はなぜだか焦ってしまい、立ったままカウンターに置かれたメニューを手に取った。ラーメンと半炒飯のセットは700円だったが、14時までと書かれていた。しかし、別々に頼むことができるらしい。

 僕が店主へと顔を向けると、彼はちょうどガラスコップに水を汲み終わり、振り返って僕へと近づこうとする所だった。ピタリと彼の動きが止まった。彼は何も言わずに、僕のことをじっと睨みつけていた。それは中華屋の主人というよりは、居合の達人を思わせる緊張感だった。

「醤油ラーメンひとつ」

 と僕が言った。

 彼は「はい」とも「うん」とも言わず、頷きもせず、やはり硬直したままで僕のことをじっと見据えていた。まだ注文が終わっていないことを、察している雰囲気があった。

「それと、半炒飯」

 白髪の店主は無言のままで動き出して、カウンターに水の入ったコップを置いた。彼は終始何も言わず、頷きもしなかった。僕は彼に注文が伝わっているかどうか不安になった。しかし、大丈夫だろうと思った。

 厨房に立つ店主の後姿を眺めながら、どうして彼は何も言わないのだろうと思った。何も言わないのは構わないのだが、頷きもしてくれないとなると、意思の疎通に若干の問題があるように思われた。もしかすると、問題があると思っているのは僕だけで、彼にとっては何ら問題が無いのかもしれなかった。

 醤油ラーメンと半炒飯を待ちながら、この店主は果たして、いつまで無言を貫くのだろうと訝しんだ。僕が退店するまで、彼は終始沈黙を貫徹できるのだろうか。

 しばらくしてから、店主の妻と思しき老婆が醤油ラーメンと半炒飯を一つずつ運んできた。彼女もやはり、無言だった。ラーメンと炒飯は特別美味くもないけれど、だからといって不味いわけでもなかった。それは当初の予測通り、店の雰囲気から推察される通りの味だった。

 食べ終わり、立ち上がると、店主は会計を察してふたたび厨房から歩み出た。小さなレジの前に立つと、店主は「800円」とだけ言った。僕は千円札を差し出して、200円を受け取った。

 店から出ると、冷たい夜風に吹かれた。何となく奇妙な中華屋だった。愛想は悪く、口数は少ないというよりも皆無だった。そこではあらゆる口頭言語の使用が、可能な限り自粛されている雰囲気があった。

 しかし、別に気分を害したわけではなかった。

 僕はあの店に勝手に入り、勝手に料理を頼んで、勝手に金を払っただけなのだ。あの店主も、勝手に店に入ってきた男が、どうにも金を払う意思があるらしいので、料理を作ってやったにすぎない。愛想を振りまく必要はないし、へりくだる必要もないはずだった。

 世界は可能な限り優しさに満ちていた方が何かと都合が良いわけではあるが、こういう種類の優しさが存在しても良いだろう、と僕は思った。店主は僕に対して文句を言ったわけではないし、僕も文句を言いたかったわけではなかった。そしておそらくは、それでお互いに文句はなかったような気がした。

 帰り道の交差点で、小さな兄妹がソリで道路を渡っていた。小さな兄は、ソリに乗った小さな妹を引きずって、どこか遠くの場所へと運んでやろうとしていた。そういうことがあっても良いのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?