人生最大の屈辱と学んだこと

ご機嫌いかがでしょうか。Yukiです。

今回は人生で1番苦汁を味わった屈辱の瞬間とそこから気付かされたことその他の一連出来事を綴りたいと思います。重たい話で恐縮です。ただ、誰にも言うツテが無いものなので。

代替わり

僕が大学2回生の頃、以前記事に書いた学生放送局でのことです。代替わりで僕は放送局代表を引き継ぐことになりました。僕が名乗り出たのは、唯一の同期が家庭の事情が大変で負担が大きく、僕しかやる人がいなかったということが理由です。

我が家では第1子で責任は強いほうですが、本格的なリーダーは初めて、未知数でした。

いざリーダーに就任すると、ラジオ放送の補助金や協力してくれる企業様とのやり取り、他の団体の垣根を越えてのやりとりなどなど。仕事が山のようでした。

理解不足とストレス

ただ、いざ仕事を進めようにも、内容把握が充分ではなく、ある打ち合わせで「進めてくださいよ。」と同期から進言されても、僕は思ったより何も内容を理解していなかったことに気づかされました。

それで自信を失って以降、先方とのやり取りも覚束なくなっていき、電話に出るのに恐怖を覚え始めるぐらいになりました。電話がかかる度に「何をやらかしたんやろ」「何か怒られるんとちゃうか…」など、今思えば余計なお世話とも言える杞憂ばかりを考えていました。そして、そのストレスは溜まる一方で、ある日家で1人でメールの文面を考えていたら、破滅的な発想に落ち入り、危うい事態になったこともありました。

それでも、ラジオの企画は進み、2018年の1〜3月の放送はできるまでに至りました。しかし、補助金の申請が遅れて、それ以降は休止に入りました。そのときは重荷が軽くなった気でいました。ただ、それでも新部員の勧誘、今後の企画は考えなければなりませんでした。しかし、抱え込みが強くなって何もできずにいました。あまりにもネガティブで独りよがりなったからか、見かねた先輩、OBからの進言もリスクを恐れた屁理屈を反論することもありました。

叱責と涙と屈辱

そして、休止から3ヶ月経ったある日、ある後輩に呼び出され話し合いましょうということになりました。しかし、後輩は怒り心頭で、我慢ならない様子で僕を叱責し始めました。報連相がない。進捗が分からないなどの不満など、思ったことをストレートに言われ続け、隙がありませんでした。中には屈辱的な発言もありました。それでも、逆らうことは不可能でした。結果的に図書館に行くと言って1人でインスタのストーリーを打ち込みながら、ボロボロ涙を流しました。その後は何も無かったかなように新入生向けの発表会の練習をしました。

辞めようとは思いましたが、この時点では辞めることに対して、情けないと思って、行動しませんでした。

先輩の一言で

それから、数日後軽音部のライブの後、打ち上げに誘われました。1度は断りましたが、どうしてもって理由で行き、心理的距離を取りつつも、参加しました。

そして、飲み会開始からしばらく経った後、1歳上の先輩と席が一緒になり、「放送局を辞めようと思ってます」と打ち明けました。すると先輩は「辞めろ」と即答しました。「でも…」と僕は同じようにリスクを盾にした屁理屈を言おうとしました。しかし、先輩は「俺は何度も逃げてきたから」と自信たっぷりでした。その溢れるオーラに今までの自分の考えが崩れ落ちた感じになって大きく変わりました。

そこから、学生放送局を辞める決意を固め、前代表→1歳下女子の後輩→同期→僕を叱った後輩→1学年上の先輩全員→顧問→ラジオのスタッフさんという順で関わりの多い人全員に辞意を伝えました。前代表は納得がいかず、一部のメンバーには惜しむ声も聞かれました。それでも、全員一致で了承を得ました。そして、2018年7月いっぱいで代表辞任、放送局からも去りました。

学び

この一連の出来事は僕の悪い部分が大きく炙り出された出来事だったと振り返ります。独りよがりと抱え込みが酷かった、報連相が不足していた、誰にも頼らない、メモを取る習慣が無かった、ネガティブな考え方など。。

実際に駅員バイトでも少しながらこういう傾向が見られ、変わらなくてはと焦りました。少しずつではありますが、頼ることの大切さや報連相することで1ミリぐらいは良くなる雰囲気がある。言わないと分からないことだらけなど分かることが多くなってきました。全員年上、自分以外ほぼ全員所謂プロというアウェーでもだんだん心を開けられるようになり、活躍できました。

ただ、つまづいてしまって、先の悪い部分が再燃することもありました。卒論とか就活とか恋愛とか…

それでも、僕は自分を知れた出来事であったと思っています。

ストリートミュージシャンの投げ銭のような感覚でお気軽にどうぞ。