書くこと

文章を書こう書こうと思えば思うほど、焦って言葉が出てこない。

すっかり読まなくなって積み上げられた本の中にあったはずの「ヒント」を横目に、何の根拠もないまま自分だけで言葉を作ろうとする。

 古典とされている古代ローマやギリシアでは、芸術とは「表現」ではなく「模倣」であったらしい。過去の作品を手本としながら、まずは正確に「模倣」する。そして、それと同時に、発展していた医学や解剖学の知識と照らし合わせて筋肉や関節などに変更を加えていく。その当時に主流だったのは絵画ではなく彫刻であった。そのため、「より緻密な人体表現」が目指されていたのである。

 百人一首や古典の文章だってそうだ。過去に書かれた優れたうた(和歌)や漢詩について少しずつ言及・引用しながら自分の作品を完成させていく。源氏物語には『長恨歌』の「比翼の鳥、連理の枝」という部分が使われていたことは有名な話である。

 つまり、「いい文章」というのは何も0から面白いことを言えというのではないのではないだろうか。もう、しばらく新しい小説を買っていない。久しく感動するような文章を何度も何度も読み直したことはない。長い間、文章を音読したり、覚えるまで読んだ記憶がない。

小論文やレポートを書く際、「根拠」や「具体例」の部分が必要だと口うるさく言われる。主張ばかりだと信ぴょう性がないし、薄っぺらいものになるのはわかる。その通りだ。しかし、具体例はどこまでが「使える」もので、どこからが「具体」なのだろう。そういった屁理屈をこねる自分も、間違いなく存在している。

これはおそらく間違いではないが、多く文章を読んできた人ほど、より面白い文章が書ける。「この表現好きだな」とか、「こうやって言えばいいのか」といったようなストックがあるからだと思う。

 書きたいと思うことはたくさんある。思うこともたくさんある。だけど、いざ文章にしよう文字にしようとすると、ただ時間だけが過ぎてしまう。何も出てこない。少し、英語を話すときと似ている。文法や発音を気にして何も話せない。間違ったことを書いたらどうしよう、つまらなかったらどうしよう。

アウトプットができないのはインプットもアウトプットも足りないからなんだろうなと思う。英語でも、文章でも、芸術でも、そうだ。

文章を書くためにはその倍くらい文章を読んで、書いてみる。英語なら例文を覚えたり、インプットをすることと、実際に話す練習をしなければならない。絵画ならデッサンや過去の作品の模倣をする。

そういった手間が何事にも必要なのだろう。

いつも言葉を話しているはずなのに、書こうとするとうまく言葉が出てこないのはたぶん、いつも書いていないからなんだろうなぁ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?