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MIU404で描かれる市民について

珍しくテレビドラマを続けてみた。

飽きっぽいので、連続ドラマは苦手なのだが、2020年の上半期にかけてTBSで放送されていたMIU404を見た。

テレビドラマ・こういった状況下なので、やれることは限られていたと思うが、第5話の「夢の島」では、外国人労働問題がテーマにあり、自分たちの社会の現状を考えるきっかけになる良作だったと思う。


先日、最終回だったが、そこで最後の犯人役をとなった菅田将暉さん演ずる久住とそこで描かれていた市民について。

久住は、バットマンのジョーカーを意識していることを感じて、多くの方が同じ感想をもっていたが、個人的にもそう思う。(ノーラン版のダークナイトでの、レイチェルとハービーデントの誘拐シーンのオマージュ=最終話前のSNSでの爆破事件)


その中で、僕個人が気になったのは、そこに描かれる市民の姿だ。


クリストファー・ノーランの【ジョーカー】では、市民を恐怖に陥れることに徹底し、市民の善悪を試している。

ジョーカーは、「どんな高潔な人間も簡単に悪に染まる」と囁き、囚人と市民の乗る二艘のフェリーにお互いを爆破する起爆装置を設置する。

人は自分の命がかかればどんな行動でも取り得る。他人の命を犠牲にしてでも。

結果、囚人は起爆装置を投げ捨て、市民は多数決を取ったうえで、囚人の船を爆破しようとする。しかし、市民はついにスイッチを押すことはできなかった。誰もその責任を取りたくなかったのだ。。。


一因ではないだろうが、舞台となるゴッサムシティの状態が、そういった市民を描くだろう。

(ゴッサムシティは経済都市で富裕層が多くいるものの、貧富の差が激しく凶悪犯罪が頻発しており、警察には汚職がはびこっている。そんな中で、バットマンのような自警団が存在している)

(トッド・フィリップス版の【ジョーカー】では、そういった社会の中で、精神的な病や貧困から、主人公が常軌を逸していき、ジョーカーへと変貌していくさまが描かれていくお話。。。)


さて、ダークナイトの内容はこんな感じとして、久住=ジョーカーについては、市民を試したり、市民を恐怖に陥れたりする感じが見られない。

「アホが“ワーワー”やっとんの、高いところから見るだけ。ドラッグやらんでも気持ちよくなれる」

と語り、市民を突き放し、人を人として見ていない。どこか諦めている感じ。

高いところからの見物し、他人を操る。ジョーカーのように自らがフロントに立つわけではなく、youtubeやSNSを利用して、影で操る。そして目的はない。操られる市民は、ドラッグ漬けで思考停止だ。

ゴッサムシティでは、市民は利己的な思考のもとに行動をおこなう。しかし、MIU404の社会では、思考停止状態にある。

ダークナイトが当時-現代のアメリカ社会を描いていたというように、MIU404が意識しているのは、冒頭で記載した第5話のように、現代の日本社会であることは明らかである。

つまり、私たちは、思考停止なのだろうか。何も考えていないのだろうか。


そして、久住は神ではない。もっと神は残酷だと語る。一瞬ですべてを消し去ることができる。我々はすべてを消し去られたとしても、思考停止なのだろうか。

加速主義的な日本で船が沈むのを待つ、沈んだとしてももっと深いところまで私たちが気づくまで沈むのを待つ。と宮台真司先生が話すが、船が沈んだとしても、我々は思考停止なのだろうか。


自分がネガティブな感覚をもっているからではあるが、私たちは希望を持って、生きていけると言えるのか。そう感じてしまった。


以下のレビューもよかったので。


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