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雑草に学ぶ

長野県東御市に移住してもうすぐ一年になる。厳しい冬を乗り越えて、初めて春を迎えた。週替わりに満開になる花が違うので、色が変わっていく。桜が満開になって、自分の目線がピンクに染まり、地面一面に桜の花びらが散り、桜が終わった思ったら、今度はたんぽぽが満開になって目線が黄色に変わった。芝桜や花桃やチューリップのカラフルな色も目に入り、毎日違う色を楽しんでいる。


東御市中央公園の桜と芝桜


上田市武石 余里の花桃

以前、東京23区に住んでいた時、雑草に目が行くことはあまりなかった。土はアスファルトに覆われ、整備された植木が整然と生えているだけで、その隙間からなんとか雑草が生えていたかもしれないが、その程度で私にとっては存在感があるものとは思えなかった。それよりも立ち並ぶ建物や、車や人の洪水に目が塞がれて、雑草が目に入る余地などなかった。春になったら桜が咲いていることだけに気づき、たまにアスファルトの隙間から咲くタンポポに気づいて、その生命力の強さに感嘆するくらいだった。

東御市に移住して、私の目を塞いでいた建物や、車や、人がいなくなった。お店がほとんどなく、人がほとんどいない。車もまばらだ。私の視界には山が連なり田畑が広がる長閑な世界が入ってくる。そこに騒然と群生している多様な雑草の多いことに驚いている。

都会に暮らしているとき、最新の情報に触れたり、話題のお店やスポットのある場所を通過していたりしていたので、まさに最先端の多様な価値観の世界にいるのだと思っていた。実態は、朝起きて満員電車に乗って会社に通勤して、残業して夜遅く家に帰ってご飯を食べ、休日は疲れて家でぐったりしていることを毎日続けていたので、実は単調だったことに気づいた。

東御市に引っ越して、毎日多様な植物をみる。ほとんど雑草だが入れ替わり立ち替わりどんどん生えてくる。その中にいろんな昆虫がいて、ミクロな世界が無数にある。生命に触れないことがなく、成長して咲いて枯れていくサイクルを毎日見ている。生命が溢れでている、そんな感じだ。

私は都会に住んでいたとき、さまざまな情報に触れ、まさに多様性の中に生きているのだと錯覚していたが、実際は単一の価値観の中にいて、生命力のない箱の中にずっといたのだと、生命力溢れる田舎の生活の中で気づいた。

自然がそれぞれの意思と関係性で多様で複雑な関係を紡いでいる。色が変わっていくし、登場する昆虫や雑草も刻々と変わっていく。田舎なのでお店もないし、都会ほどたくさんの情報がないからこそ、今まで見ようとしてこなかったものが、逆にこれでもかというほど多様な世界を見せてくれる。自分が探していないのに、多様性に触れることができる。

世界は、こんなに生命力で溢れていたのか。雑草からそんなことを学んでいる。

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