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一心向佛

背景とプロフィール画像について
白い背景と黒丸としての自分

世界で起こっていることは文字情報としていろんなところから知ることができる。だから、世界は白いはずがない。だけど、私は接する情報の何一つと具体的に関わっていない。情報が毎日通り過ぎていくだけ。

自分の生活や、自分と関わっていることだけは明確だ。私と接するものが私の人生を形成していくので、知らない真っ白な世界の中に、知っている自分があるから、私が存在するところは黒丸としてマークできる。白い世界の中に、自分が具体的に通った軌跡だけ、線を引くことができる。

だから、背景を白に、自分のアイコンは黒丸にした。

自分が具体的に摂取して経験してきたことは、世界の動きといつも一致しない。世界はそんな感じで、自分とは無関係にいろんなことが動いていて、情報が洪水のように流れて、接するたびに、心配したり、興奮したり、喜んだり、沈んだり、自分とは無関係なことのはずなのに、あたかもそれらが世界を彩っているようにさえ見える。そこに具体的な自分はどれだけ寄与しているのか、不明だ。ほんとは世界は真っ白で、自分が具体的に関わるものだけをなぞっていくと実はそんなに色はつかないのではないかと思う。

そんな軌跡がどのように形作られるのか、わからないが、具体的な人生を具体的に積み上げていきたいという気持ちがある。だから白い世界に黒いアイコンの自分がいい。

名前について

「一心向佛」という中国語がある。この発音が、yixinxiangfoだ。

昔、中国の少林寺に遊びに行った時に、この標語の掛け軸を見つけた。その時は意味もわからず、発音が可愛かったので、気に入った。

意味は、仏に向かって一心に祈る、という感じ。

仏は、身近にいる。お寺にもいるし、仏像としていろんなところにいる。それに対して祈っているのはごく一部の仏教徒かもしれない。祈られようが祈られまいが、仏はいろんなところにたくさんいる。

日本で信じている人が多いのは、浄土真宗と、曹洞宗だ。浄土真宗の開祖の親鸞は、念仏を唱えれば悪人でも救われると説いた。曹洞宗の開祖の道元は、私たちの中には仏がいると説いた。どちらも、仏に対して、自分自身に対して、真剣に向き合っている。その姿勢が、「一心向佛」という意味なのではないか、と私は解釈している。

今の時代、心の底から何かを信じることは難しい。信じていたことが科学の力で解明されたり、歴史的事実だって覆っていく。だから宗教も廃れていく。常識は疑えと言われる。疑わないと、詐欺師に騙されてしまうかもしれない。信じることは難しい。だけど、信じることの大切さをこの言葉は説いていると思う。

白い世界と、黒丸のアイコンの自分と、信じること。

自分の目でみて、肌で感じ、自分を具体的に通過していき、そこで出会った世界を線でつないで行った結果、現れる世界を、言葉で表現できるような、そういうものを目指して、文章を書きたいと思う。

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