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 ユタ州中国語新聞でのリンヤンコラム『 能動的な内在する禅定力』

 古代中国は礼儀の国です。礼は尊重される規範です。厳粛で盛大な儀式はすべてゆっくりとしたリズムで行われます。
 その連続するゆったりとしたすべての瞬間は、きわめて真剣に行われます。これは単なる形式ではなく、体験することでもあります。
 今日のインターネットは速さと便利さをもたらしますが、同時に浅薄さと現代人の慢性的な注意力の喪失をもたらしました。
 私たちの主体的な注意力が弱まれば弱まるほど、注意力がますます受動になります。一つまた一つとやってくる刺激的なタイトルと絶えず切り替わる画面は、いとも簡単に私たちの注意力を受動的なものにします。
 数々の時代テレビドラマは、外部からむりやり私たちを古代に引っ張り、私たちの「主動的な乗り越える力」を奪ってしまうのです。

 「個人の気質に影響を与えるのは、落ち着きと能力の感覚です。では気質とは何でしょうか?それは周囲の影響を受けない禅定力です。
 それは感知することはできても、動かすことのできない状態です。
 一をもって貫く、内在するリズムに従う状態です。

 私たちは、大変速い動きをする時には、注意力が散漫になることがあります。しかしゆっくりした、連続した動作を行う時には、集中力が高まります、ゆっくり自転車をこいだり、ゆっくり毛筆で字を書く時のように。
 古典的な気質はその中に禅定力と落ち着きを含んでいます。古典的な遊びの状態は、表面的な面白さに欠けるようですが、それを面白さに変えることができます。楽しみはその中にあります」
 (この部分、ラジオ番組「冬呉相対論」を参考にしました)

 よい方向性を持つことで、よい能力を身につけることができます。ただ外面的な完璧さだけを追求していると、内面の空虚さから逃れるのが難しくなります。内面的な楽しさを追求していくと、たとえ数字に表すのが難しかったり、すぐに目前の効果が表れなかったとしても、一生使い続けることができる能力に変わっていきます。それは私たちに、無用に見えるものが実は大いに有用であることを教えてくれます。

 先人が発明した毛筆は、入門当初はそれを使いこなすのが難しいですが、一定期間の訓練を経て、使いこなすことができるようになると、極めて品位の高い趣味になります。
 その奥義は「内在する微細な感覚を動かすことによって、少しずつ豊かな内観に向かう」ことにあります。毛筆が宣紙に触れると、筆と紙の摩擦による相互作用が生じます。筆を下ろすたびに、その力とリズムは毎回千差万別で、同じではありません。思考と感覚が筆と紙の相互作用に加わることによって、字を書く人の内在的な感覚と認識、審美感がしだいに動き出します。   内在的感覚がこの動きを何回も反復することによって養われるのが、自発的で内から外に向かう主動的な能力です。

 私が教えた多くの日本人生徒さんがいいます:
 「一水空が好きなのは、動きが優雅だからです」。では優雅とは何でしょうか。私が長年続けてきた経験からいえることは、それは一種の「自在」という感覚です。「心・身・気」を統一した反復練習を通して、すべての一瞬一瞬に対する連続してゆっくりした長期的な持続練習により、はじめて「内に禅定力を秘めた外観」が生まれてくるのです。

 私の師匠である尹氏八卦掌の継承者・王尚智先生は、メディアの取材に対し、こう話されました。「武術はまた、自己修行でもあります。心を集中させるのが難しい無味乾燥な反復練習は、ちょうど魔物のようなものです。この魔物とともに舞い、不断の鍛錬をすることによって、体と心を高めることができます。時間をかけることによって、身体が徐々に体得し、功夫が身につくのです」

 生活上の趣味は、それを持続し熟練することでよろこびが生まれます。
それは、自分自身がこの上ない高みに到達したと感じられる体験です。不断の、工夫を凝らした練習を通して、受動から能動へ、弱さから強さへ向かう過程、この過程が体現するのは、生命の本質的なよろこびです!
 
あなたが選ぶ方向はどちらでしょうか。内に向かいますか、それとも外に向かいますか?

追記

 私の「東方報」への連載は12回目、これで一つの区切りをつけることになりました。編集部の力強いご支援に心から感謝いたします。また、私の書画の師匠である張浩波先生のご協力と推薦にも感謝いたします。一年間このコラムの文章を書かせていただいたことは、私の学習の一つの帰結であり、さらに深く掘り下げるめる機会でもありました。この連載が、読者の皆さんに少しでも発見と共感をもたらすことができたとすれば、これに勝る喜びはありません。皆さんと親しく交流する機会があることを願っています。


一水空のHP


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