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自分をほめよう?

最近「エール」とか「自分をほめよう」という広告が目立ちます。実際にそういう行動をしている方々もいます。誰かを応援するための誠実な行動は、その人たちも「ほめられる」対象です。

新型コロナについては、「恐い」「苦しい」とかの、比較的ノーマルな反応だけでなく、「ショックドクトリン」「洗脳」「壮大なウソ」とか、さまざまな意見が提示されてきたし、そのような中でも現実的には多くの人たちが自粛を共有しました。そして、それは継続しています。

そのようななかで、日本社会の全体に「疲弊」があるというのが「エール」や「ほめよう」を発信する根拠であり、「全員が無名のコロナファイター」であり、「世代を越えて、誰もが頑張っているんだ」「だけど、みんな疲れているんだ」「頑張り続けることには限界があるんだ」と。そこで「みんながみんなを「すげーな」とほめよう」「そうすることで、少しでも疲労をやわらげよう」「ともすれば、限界を突破した力が生まれるかも」というわけです。

いわゆる陰謀論的な立場では「そんな疲弊があるという思い込み自体が、思い込まされた作り物だ」とも言えるのですが、それはひとまず措いて、私が思うのは、「そんなに日本人は、あらためて見直してほめなきゃいけない量の「当たり前」を生み出してきた国なんだ」ということです。

たとえば「お母さん、コロナのときに買い物をしてくれたり、アルコールで家事をしてくれてありがとう」「お父さん、コロナのときに通勤電車で仕事を頑張ってくれてありがとう」というのだけど、その背景には、そもそも「家事は女がやって当たり前だ」「仕事は男だけがするものだ」という考えが潜んでいるということです。家事なんて当たり前だし、労働なんて誰しもするのが当たり前だから、そんなのいちいち「ほめない常識」が、日本に根付いていた、ということの裏返しが「エール」でもあります。

もちろん、いまはそこに「こんなコロナの時期なのに」とか「コロナだから」という「背景」が付属しているのですが、たとえば、これが「放射能」だったらどうでしょう。「福島の原発が爆発して、こんな放射能が流出しているのに、外で買い物してくれてありがとう」とか、「スーツに放射能がくっついたかもしれないのに外で仕事してくれて、お父さん、ありがとう」と、なったんでしょうか? 

少なくとも、ありとあらゆるSNSやテレビが、これほど「ほめよう」「すげーな」「えらい」「尊敬する」と、プロパガンダ的にやっていた記憶はありません。そして、放射能でも頑張って通勤している人を「すげーな」という風にいうとき、その「すげーな」とか「尊敬する」というのは「お前、よくこんなときに、そんなこと出来るな」という、控えずに表現すれば「オカシナ人」を見るような「批判的な視線」でした。

そして、現在の「ほめよう」や「エール」の代わりに、そこにあったのは「絆」でした。

目に見えずに健康を害する逃げ場のない脅威という点では(そして、もしかしたら人為的に作られたかもしれないという点でも)、「コロナ」も「放射能」も同じですが、「with放射能」とはなっていませんね。そして「みんなで放射能と戦う人をほめよう」とも「福島の原発から放射能の流出が終わるまで、強制的に外出自粛しましょう」ともなりませんでした。そのかわり「電力不足だから、一斉に真っ暗にしましょう」というのがありました。

2011年当時、ハッシュタグという考えは広まっていませんでしたが、今もって「#とめよう放射能」など、NHKでこぞって報道するまでには至っていません。むしろ原発事故は忘れられた感さえあります。

今からでも、区役所が積極的に動画でPRするとか、国家が「若者が、同世代の等身大のメッセージを伝えようとしているから、彼らを応援したり、彼らのステルス疲労を開放するためにも、放射能危機を積極的に発信して、理解を求めよう」と、やれば出来るのに、やっていません。コロナではやっていますよね。

福島の大学へ行きたかったり、福島の海で働きたかったとか、福島で生涯を過ごしたかったとか、そんな夢も、すべてつぶされました。小さい部屋に閉じ込められるどころか、故郷を追われ、追われた先でも「菌」とか「放射能」とかいじめられる。当時、福島での大学生活をつぶされ、悲しいというより恐怖を抱いた若者は、何人いたのでしょうか。そして、その人たちに「自分を拍手してあげよう」というメッセージは届けたのかというと、そんなことは逆に「やめよう」という話だったと思います。なぜなら「もう、頑張れって言われる限界まで頑張っている」からです。

作っても作っても「放射能がついている」と風評被害を受け、代々守ってきた農家をつぶして、計画していた余生も台無しになり、マスクどころか、防護服までつけて歩き、福島から出ていった人たちと思想的な異なりから疎遠になり、子どもや孫が甲状腺のガンになるかもしれないけど他に行く当てもお金もないから住み続けることを決め、外側からは「子供を殺す気か!」と叫ばれて。そんな人に、少なくとも私は、冗談であっても「自分に拍手してあげてください」とは言えません。なんの「エール」も送れません。

要するに、このコロナ禍における「ほめよう」とか「エール」は、2011年の東日本大震災で、10年前に発生してプロパガンダのように叫ばれた「絆」の変異型なのです。というより、そうなりつつあります。実態はコロナも放射能も同じようなものなんですが、そこはきれいに区別されて、あたかも異なるメッセージであるように扱われていますが、よくみれば「ほめよう」は「絆」の変異型だと分かります。すなわち「心地よい分断」です。

あのとき、「絆」という旗印の下で、日本人の連帯意識が強調される一方、外国人が排斥されました。放射能被害を受けた「絆の輪」に、北朝鮮人や韓国人は入っていた記憶はありません。今回の「ほめよう」には、日本に残る外国人は入っているんでしょうか。

また、あのとき「絆」の旗印の下で、祭だとかさまざまなイベントが自粛を余儀なくされました。もちろん、被害が大きいので、物理的にそんなことが出来ない、ということもあるのですが、おそらく「祭をした人」は「しなかった人」に罵られたり、「非常識だ」と言われたでしょう。

いま、私は「ほめよう」という旗印の下で、「疲れるのは当たり前」だというのと同時に「疲れていないのはおかしい」「疲れていないのは非常識」という、静かなメッセージを受け取っています。「祭は控えよう。控えている人は頑張って自粛しているんだから、ほめてあげよう」というメッセージの裏側で「こんなときに祭りをしている人間は、ほめてあげない。けなそう」というアンチメッセージが潜んでいるように恐れています。

そして、「ほめよう」「エール」ということが、NHKが繰り返して訴えてくる「命を守る行動を」という訳の分からないメッセージも、私にとってはあの2011年当時のテレビをつけて、1か月ばかり流れ続けた「エー、シー」「エー、シー」「エー、シー」を思い出し、「ステルス疲労」の明確な原因になっています。

そんな私に「あなたは頑張っている。ほめます」とか「すげーな」とか「拍手してあげます」と言ってくれる人は、いったいどれぐらいいるんでしょうか。逆に「自粛警察だって辛い気持ちを抱えているから、ほめてあげよう」と出来る人は、どれぐらいいるのでしょう。

私は、これらの「ほめよう」「エール」というメッセージが、やがて静かに「ほめてあげられない人」「エールを送りたくない人」という反動的な分断を生み出す「洗脳」に進歩していかないか、とても危惧しています。

2011年に日本に現れた「絆」は、そこまでの作用を果たしたようには思いません。しかし、今回は「ソーシャルディスタンス」という物理的分断とともに、ニューノーマルという「リモートワーク」の常識化で、「心理的な分断」もなされてから、つまり「下地が十分に形成されてから」、この「ほめよう」なる「合唱の声」は現れました。

たとえば私はマンションに住んでいるのですが、上の階の人間は、緊急事態宣言でも1週間に1度、孫3人を呼び、遊園地のように走り回らせています。その恐るべき振動音には辟易しますが、彼らにとってはこれが「心理的な分断」の反動です。「ZOOMで話せばいいじゃん」では、人の「さびしさ」などは埋まらないのです。

そして、緊急事態宣言下で下の階に住む人のことを考えず、みんなでコロナになってもいいし、マンションでクラスターが発生してもいいから、自分の寂しさを埋めるために、孫を呼んで楽しく走り回らせるんだ、という理事会のこの老夫婦も「ほめよう」「エールを送ろう」となるのでしょうか?

このように、「ほめよう」というメッセージは、都合よく「こいつはほめてやる対象じゃないだろ」という「差別」について、心理的な「罪悪感のハードルを下げる」ことに加担しているわけです。しかも「頑張っている人を、なぜほめない」という風に「メッセージへの抵抗が、そのままアンチとしての評価」になるという、「絆」以来の様式もしっかりと保持しています。まさに変異型なのです。

はじめに「医療の限界」があり、やがて「医者にエールを送ろう」と部分的な応援だった「ほめよう」「エール」というメッセージは、「1年間も、まともな授業を受けられなかった大学生」の存在だとか、「無症状の感染者」の筆頭として「若者」が位置付けられたことで、「若者ばかり悪者にされているのはひどい」というところから、「若者もほめてあげよう」「若者にもエールを送ろう」と発展し、いつのまにやら「みんながみんなをほめよう」になりました。

そしてそれは、今しも「疲れている人をほめないなんてひどい」「あなたはなぜそんなに頑なにエールを否定するのか。そんなにエールを送るのが嫌なのか」という、「思想の分断」からの「人間の分断」へと発展しそうな勢いです。

さて、これらに対するワクチン接種はいつ始まるのでしょうか。おそらく、それは「メッセージそのもの」に対してのワクチン接種では効果がありません。それを発信する側に打っても意味がない。もしかすると、それは私自身に打たねばならないのかもしれないのです。

敢えて書きます。人をほめるだとか、人を応援する気持ちだとか、当り前のことを当たり前と捉えずに「いつもありがとう」と声を掛けるなんて行為は、わざわざプロパガンダ的な繰り返しの中でテレビ局に促されてやることじゃありません。ひとりの人間が、ひとりのヒトとして考えることです。

何がどう「困難であるのか」などは、人それぞれです。逆に「何を応援と捉えるか」も、人それぞれです。そうした「当たり前の差異」に目をつぶって一律のメッセージとして「ほめなさい」「エールを送りなさい」と「自粛のように強制」する。「余計なお世話」を繰り返し迫っている。それが、今の「ほめよう」とか「エール」というメッセージの姿です。

「命を守る行動を」も同じです。みんな命を守っている。あたかも「命を守ってない人が多くいる」かのごとき印象操作です。命を守るために「マスクをしない病人」だっています。それを一律に「マスクをしなさい。それが他人の命を守ることにもなるからだ」というのは「差異があるのが当たり前」という、根源的な「当たり前」を無視しています。そのことが、何より危険なのだと、私は思います。



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