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学園東町三丁目(22)片十字絞め

柴山謙治先生が被験者4名のうちの1人となった医学論文「柔道の『絞め』技の脳波を主とした医学的研究」は結語においてこう続けます。

「しかしボクシングのノックアウトよりは危険性が少ないと考えるので、絞め技を全く除外する必要はない。或る規定を設けて行えばよい。障害が残るかという質問には、われわれの行った実験では何ら障害を残さなかったと答える。以上結言を以て講道館への回答とする。」

この実験が行われたとき、柴山謙治先生は30歳。GHQから講道館へ「宿題」が出されていたことも占領軍から帰る道すがらトラックの中で聞いていたと推測されます。被験者となることをいの一番に志願されたそうです。実験当日の朝、病院に向かう間際、奥様に対して、「永遠の別れになるかもしれない」といって挨拶をされたそうです。

実験の際には橋本正次郎先生(当時58歳)は勿論のこと、橋本先生と同郷(岡山県)かつ同門(東京高等師範)の師匠、永岡秀一先生(講道館十段)も立ち会われました。、当時74歳の永岡秀一先生は村松梢風作「花の講道館」のモデルと言われています。講道館元祖四天王の先生方(西郷四郎先生、横山作次郎先生、山下義韶先生、富田常次郎先生)に継いで講道館の大黒柱となられ「講道館の殿堂」になられています。東京高等師範学校、警視庁、中央大学の師範を務められたほか、明治32~35(1899~1902)年の間、高等商業学校(現一橋大学)の初代師範を務められました。

片十字絞めが施される間、永岡先生は「心配そうにあたかも慈父の如く温かく見守っていただいた事が非常に印象的に今も私の脳裏に残っている」と後年柴山先生は部報一道にて述懐されています。

その約二年後の昭和26年、新制一橋大学で当時2年生だった神谷信能さんという先輩がおられます(昭和29年新制卒)。

戦争中は戦時体制でそれどころではなく、また、戦後は柔道が禁止されてしまいます。柔道の解禁がなされると他大学は次々に柔道部が活動を再開し始めます。当時の学生はハッスルするものを求めておりましたが、実際のところは生活が苦しく、柔道がやりたくてもやれない状態だったといいます。

厳しい生活にあがなうように神谷先輩の内なる柔道炎がメラメラと燃え上がります。神谷先輩は前期小平の学生から有志を集めて柔道部を再興しようと動かれたそうですが、当時は生活のためアルバイトを余儀なくされる学生も多数おりなかなか部員が集まりません。しかし、神谷信能先輩のお父様が戦前の商大柔道部OB神谷好一先輩(昭和2年学卒)でおられたことから、柴山謙治先生の師匠でおられた子安正男先生(九段)に会うことができたそうです。子安先生は戦前の柔道部の諸先輩方を紹介して下さいました。先輩方の最初の一言は「兎に角寄付金を集めに廻れ」。

同期有志の先輩方数名とともに学校や講道館への渉外にあたり、昭和26年秋には小平前期校舎に「柔道部員募集・部設立集会」という新歓ポスターを貼り出すところまで漕ぎ着けました。その時、部員募集に応じたうちの一人が、当時一年生のトヨタ自動車会長の奥田碩先輩です。

国立後期への勧誘も行い、道場開きを迎える昭和27年2月3日までに15名程度の部員を集めることが出来ました。子安正男師範と牛島辰熊師範を迎えて、寒々とした雰囲気の中、物資不足で帯もないため、全員が白帯です。この時、小平に初めて登場されたのが、子安正男先生のご推薦で師範に就任された、真黒い髭を蓄えられた32歳の柴山謙治先生でした。(続く)







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