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学園東町三丁目(26)天性の素質

X Japanのメンバーだったhideは「和顔愛語」を絵に描いたような好人物でした。愛らしく気さくな人柄で友人も多く、病気を患うファンに寄り添い、当時としては斬新な新しいタイプの楽曲を創造し、後に有名になるマリリンマンソンが無名時代にhideのファンだったことはよく知られています。

hideがノブに掛けたタオルで首を吊った状態で発見されたのは平成10年(1998年)5月2日でした。警視庁は当初「自殺」と発表しましたが、遺書も自殺を匂わせる行動も全くありませんでした。ソロ活動を開始した直後で、順調だっただけに、突然の死はファンでなくとも大きな衝撃を受ける出来事でした。不可解この上ない突然の死に告別式はパニック状態。hideの遺体が安置された築地本願寺境内ではファンによる後追い自殺が相次ぎました。そのため、Yoshikiがファンに自殺を思い止まるよう会見を開くほどでした。

しかし、hideの死因は「自殺」ではなかったという噂があります。hideは音楽の着想を得るために薬物を常用しており、死亡当日は自ら首を絞めて血を頭に昇らせた状態で薬物を使用しその過程で死んだというのです。その噂が本当かどうかは分かりません。後追い自殺が多発したために、警察も途中から「変死」と発表を変えてます。泰治さんが亡くなった原因はわかりませんが、時期だけを取り上げればその直後でした。警察発表とマスコミ報道が残念で仕方ありません。

兄の智英さんからお電話を貰いました。僕の名前が書かれたメモを見て驚くとともに消毒液とビールは嬉しかったけれども、とてもすぐに連絡できる状況ではなかった。今は都民生協で働いていて、コロナ危機の中需給調整でぎりぎりのところで毎日闘っている。在庫を平準化して、供給を途絶えないように生産調整を行い、毎日の在庫状況を見ながら受注の上限を設定している、というお話でした。僕もちょうど同じ調整を海外への輸出品で行っていますが、せいぜい20~30品目です。智英さんは100品目以上の製品の需給調整を行っています。本当に大変な激務で、異常事態の中、へとへとになりながら食品供給のライフラインを維持するために毎日出社しているということでした。

ひととおり近況を交換した後、「おじさん、おばさんは元気ですか。年賀状が途絶えたので心配しています」とお話したところ、智英さんは突然無言になってしまいました。おじさんは一昨年の冬、おばさんは昨年の秋に相次いで亡くなっていました。あの賑やかだった大家さん一家、毎日ひっきりなしに人が出入りして、地区の工務店組合の理事長だった棟梁も、近所の有名人だったおばさんももうこの世にはいなくなっていました。智英さんは今頃電話してきて、、、と声を詰まらせて涙声になりました。僕もごめんなさいともらい泣きをしながら謝るしかありませんでした。

ヤロサイが放校された平成7年(1995年)3月以来、アルバイト時代を含め現在まで一貫して勤務している〇〇病院は病床数580床という精神科・心療内科で、三多摩地区最大級の規模を誇る施設です。この〇〇病院に泰治さんが当時入院していたことはこの時の智英さんとの会話で初めて知りました。

この原稿を書き始めてから、ヤロサイの25年間の生い立ちを尋ねるくうちに、ヤロサイは「泰治さんらしき患者さん」と夜通しで語り合ったという記憶があることがわかりました。

名前こそよく覚えていない、といいながら、小平に住んでいて、ギターを弾くのが好きな患者さんが確かにおり、その患者さんが調子が悪いときは、よくヤロサイが夜勤で詰めているナースステーションにやってきてはハウンドドックやBOOWYの話をして気分を落ち着かせていたというのです。

堕天使ヤロサイはバイトのほか競馬・バチンコと一通りの遊びをこなしており、確か玉川上水沿いの日立自動車学校がある敷地のボーリング場に隣接するパチンコ屋に出入りしていました。僕も智英さんや泰治さんに誘われてそのパチンコ屋に行ったことがありしたが、ヤロサイは小平在住どおしということでその患者さんとあのパチンコ屋のあの辺りの台は狙い目だ、これこれこういう日に朝並ぶと鉄板で勝てるといった話を「泰治さんらしき患者さん」としていたというのです。

その患者が本当に泰治さんだったかどうか真相は誰にも分りません。しかし、もしそうだったとしたら、世界は本当に狭いということを実感しています。

おそらくヤロサイは天性の素質として看護師という職業に向いていたのだと思います。会話を通じて相手と交感し互いに意気に感じる情熱的な語り口、酒を飲み涙を流しながら相手の話に感動し自らの逸話に涙する情景を僕は何度も小川荘で見ています。ヤロサイは小川荘で僕を癒してくれた時と同じことをずっと病院の患者さんと続けていたのでした。時に暴れる患者さんもいたのでしょう。柔道部最弱だったとはいえ、柔道をしていない患者さんよりはよほど力はあると思います。病院にとっても当時はまだ男性の看護師は少なかったので頼りになる存在だったのだと思います。絶対に人にプレッシャーを与えず、島原方言丸出しのイントネーションで、寝坊や間抜けな発言で人を和ませ、ミッフィーちゃんのようにいじられまくるというキャラクター。それが功を奏しただと思います。患者さんにとっては癒しがあって、いざというときは力強い頼りになる看護師さんなのです。(続く)  

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