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学園東町三丁目(23)柔道はそれだけじゃない

今はもう跡形もなくなってしまった小平予科道場。口髭を蓄えた若き「柴さん」がにこやかに登場し、次々と血気盛んな若者たちをお腹の下に押さえ込んでいった昭和23年2月3日。どれほど力強い寝技乱取りをされ、どんなに楽しいお酒を学生やOBたちと酌み交わしたのでしょう。

その日から再び動き始めた小平道場で柴山謙治先生が学生たちと交わした「約束」は形こそ変え、今でも一橋大学柔道部に息づいています。一橋大学柔道部師範の野瀬清喜先生は平成五年の三商大戦で相手の抜き役に分けることを至上命題として試合に臨むある選手にこう仰られました。

「相手は高校時代からの名選手だし技も切れる。だけど、柔道はそれだけじゃないんだ、ということをとことん見せてこい」

その選手はその試合を見事に引き分け、膝をボロボロに故障しながら四年間を全うし、卒業後に入院手術、三商大戦以降は一度も道着に袖を通しておりません。

先日、リモート飲みで、商社に勤めるその元選手はそのときのことを回顧しながら「僕はあのときの野瀬先生から掛けてもらった魔法の言葉のお陰で相手選手と分けることができたし、今も頑張って生きていられるんです」と語っていました。

柴山謙治先生と野瀬清喜先生という稀代の名柔道家を師と仰ぎ、恵まれた先輩後輩たちに囲まれて切磋琢磨する青春時代を過ごすことが出来た僕たちは本当に恵まれていたと思います。卒業生たち(と放校された者)はこれからも様々な持ち場を通じて、小平での約束、すなわち、参ったなし、を胸に強い使命感を持って生きて行きます。

コロナの影響で近隣諸国への差別やヘイト、医療従事者への嫌がらせ、また、人減らしを目的とした仲間外れや嫌がらせが横行し始めています。職場でも絶対にそうした疎外行為やいじめをしてはならないし、こうした時期だからこそ主義主張に反する安易な妥協や忖度やゴマスリはしてはならないと思います。新型コロナウィルスは人類への挑戦であり、ドイツ連邦共和国のアンジェラ・メルケル首相がテレビ演説でおっしゃっていたとおり、世界は今戦後最大の危機を迎えています。柔道を再開できるようになるにはおそらく戦後柔道が禁止された昭和20年から解禁される昭和25年まで5年間の歳月を待たなければならなかったように、同じくらいのまとまった時間が必要になると思います。

世の中には医療従事者、物流関係者、清掃作業者、配達事業者、生産者など様々な「柔道家」がそれぞれの世界で懸命な努力を重ねています。道着など放校以来一度も袖を通していないヤロサイが一人の医療人として立派に、そして「柔道家」として生きているのは、あの環境で僕らとともに汗を流したからだと思います。そんなヤロサイに、僕は畳を担いで風雪吹き荒ぶ中、トラックの荷台で橋本正次郎先生と「柔道は不滅だなー」と交感し合った若き柴山先生の姿が重なり合います。

平成元年にもう一人の新人白帯だった元文化系腐男子は5月17日の日曜日の午後、倉庫に置き換わった約束の場所小平道場跡地から、体育館とプールの南にあるかつてのバレーボールコートに向かって再び歩きはじめました。学園東町三丁目の守谷工務店はいま現在果たしてどうなっているのでしょうか。気になって仕方がありませんがもう辺りには夕闇が迫って参りました。

バレーボールコートがあった場所には国際交流会館が建て代わり、その居住区に大きなマスクをした外国人の親子がいました。話しかけてみると、農工大の農学部で研究されているガーナの大学院生でした。年齢がさほど離れていないと思ったので、サッカーのガーナ代表だったアンソニー・イエボアが好きです、と言うと、満面の笑みを浮かべて握手しようとするので、コロナがあるからやめておきましょう、とお互い笑い合いながら遠慮することにしましたが、日本人がアンソニー・イエボアを知っているなんて、と驚いていました。にわかなサッカー知識もたまには役に立つものです。

正門を抜けて一橋学園駅前を目指します。踏切を越えるとガラリと雰囲気が変わります。かつて様々なサークルが新入生の勧誘に使用していた龍園もお弁当を販売して頑張っています。大学北通りから続くその道は踏切を境に、警察学校北通りと名前を変えます。警察学校北通りを挟んで龍園の反対側の敷地はまず自衛隊小平駐屯地、そして、柴山謙治先生が柔道教授を務められていた関東管区警察学校と広大な国有地が広がります。柴山謙治先生はこの警察学校と小平道場を掛け持ちされて、夏の間、稽古の後にもんどり打ってお吐きになられたとの記録が柔道部80年史には残されています。(続く)





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