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学園東町三丁目(27)何物かを掴め -完-

「魂魄留道場」

国立東校舎の最果てにある有備館には牛島辰熊先生が揮毫された書が飾ってあります。平成元年4月12日、「本当のこと」は何も知らされずにここに連れてこられた白帯の私は四年生の主将「鉄砲返しのジャイアン」にこう尋ねました。

私「あの文字はなんと読むのですか」

ジャイアン「コンパクト道場だよ」

私「えっ?」

ジャイアン「コンパクとどまる道場だよ」

私「あ、魂魄とどまる道場ということですね」

ヤロサイと私を含む同期12名がここで柔道部員としてのスタートを切ってから早いものでもう30年以上の歳月が流れました。柴山先生は柔道を通じて「参ったなし」、すなわち、自分の努力なしに安易な方に妥協するな、自分の良心に反する妥協は絶対にするな、と何度も仰っいました。そして、日々の稽古や試合を通じて「何者かを掴め」ということを教えて下さいました。

また、柴山先生からは「うーはま。攻めなきゃだめなんだよ。人生も攻めるんだよ。うー負けるとほんとに馬鹿に見えるねー」と返す返すお声がけ頂きました。私は十数年前に東京都国公立戦で首を骨折して半身不随となった後輩を歩けるようにするのが生命関連産業に従事する自分の使命だと思っています。これまで15年間、開発、提携、渉外、契約といった事業開発の仕事をしてきました。しかし、昨年四月、突然輸出業務へ配置転換となり、反則負けを取られてどんなに頑張っても試合で攻めることができないドイツから帰国後の平成六年(1994年)の三商大神戸戦がフラッシュバックしてしまいました。体重を載せて寝技に移行した際の体勢が腕絡みと見做されてしまいました。

製薬産業に従事している以上、まだ充足されていない医療ニーズ、すなわち、視神経障害で失明したり、脊椎損傷で歩けなくなった人にとって福音となる新しい治療法を提供すること=自分が生きる意味だと信じて仕事に従事してきました。だから配置転換が悔しくて悔しくて仕方がありませんでした。

でも、コロナを機に今までルーティンと思っていた物流の仕事が全くルーティンなものではなく、これまでになく重要な仕事であることを認識した次第です。どんな仕事も疎かに出来ないということなのでしょう。神様は見ています。

この四月、息子は医学部に進学することとなりました。自分が抱いた夢、果たすべき使命は今後息子と共に実現したいと思います。

平成4年の春にニッポン放送「大沢悠里ゆうゆうワイド」の取材で、毒蝮三太夫さんが国立市東のノグチ酒店にやってきました。

蝮さん「おいお前らの得意技はなんだ、一人ひとりいってみろ」

部員A「背負い投げです」

部員B「内股です」

部員C「スプリットフィンガーファストボールです」

蝮さん「そりゃ野球の球じゃねーか、馬鹿野郎」

部員一同「わーーーーーー(大爆笑)」

蝮さん「本当お前らしょうがねーなー。明治とか東海とかにコロッコロ負けるじゃねーか。でも本当によく頑張ってるよな。お前らこれからも一所懸命稽古しろよ」

僅か数十分の出来事でしたが、蝮さんはすべてをお見通しのようでした。彼も芸能界を舞台とした一人の「柔道家」であり、それはそれは高名な「先生」に違いありません。

嘉納治五郎先生は高等師範学校校長に就任されて学校柔道を正課として授業に取り入れ、柔道の教育的側面を重視されて普及拡大を図られました。柔道の基本は受け身であり、人々の精力を善用し、自他ともに共に栄える平和思想に基づくものであり、決して人殺しの道具ではありません。しかしながら、柔道をしていると何故かしらいつも人の生死というものを考えざるを得なくなります。それこそが、柔道がスポーツではなく「武道」たる所以なのだとと思います。

感染リスクが収束しない現況は戦後柔道が禁止されていた時代に極似しています。智英さん、ヤロサイといった各界の「柔道家」たち。道着を着て柔道をしていた人もそうでない人も、次の時代に向けて「不滅の柔道」を信じて日々努力する毎日です。そんな「柔道家」たちに本稿を捧げます。

戦後、柔道が禁止されていた時代に畳を担いで米軍キャンプにデモンストレーションを重ねた柔道家たちが思い描いた「柔道の復興が日本の復興に繋がる」という強い信念、そして「不滅の柔道」という思い。こうした歴史を知り、その精神的な遺産を大事にしながら、今回の危機からの復興を目指すヒントを得たいと思います。皆が皆、それぞれの分野の「柔道家」として「何者かを掴」まなければならないのだと思います。

そして、「不滅の柔道」を信じて、次のステージに向けて自分が掴んだ「何物か」を通じて社会に貢献できるように、今の難局をマネージして行きたいと思います。

参ったなし
有備の館
月あがる  

ー完ー  


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