見出し画像

学園東町三丁目(5)サンタフェ

新小平駅から玉川上水沿いの小平校舎を目指して東へ歩くこと二十分、小平警察署の周辺は昔は一面の畑だったはずですが、今や真新しい住宅街へと様変わりしていました。長崎県島原高校出身で僕と一緒に大学入学後白帯から柔道を始めたヤロサイ(マネジャーと同じ斎藤という苗字だったため、筑紫丘高校卒の岡須蔵くんがこのように命名)は小平警察署の近くにあるゴルフ練習場の脇の「小川荘」に住んでいました。ヤロサイは柔道部内最弱な上に、四年生になるまで練習試合で一度も勝利をあげることが出来なかった「いぢられ役」です。結局は小平校舎から国立校舎に進学することに失敗し、近くのセブンイレブンでバイトしながら週末は府中競馬場に通うという自堕落な学生生活を六年間もこの小川荘で送り続けました。天才的な要領の悪さにより、結局は外国語8コマの単位をひとつも取得することが出来ず、卒業どころか夢の国立校舎で講義にすら出席することすらなく大学を除籍となったツワモノです。しかし、いつも皆に愛されていて、小川荘では宮沢りえの写真集「サンタフェ」を見せてもらえることもあり、ヤロサイの汚い下宿はいつも柔道部同期の憩いの場と化していました。

小平校舎は元々東京商科大学(現一橋大学)の予科があった場所で、商大予科というのは旧制高校、いわゆる戦前から昭和26年までのナンバースクールの一つに数えられていました。本科とは別扱いの高等学校ですから、小平校舎で学ぶのは戦前同様に一〜二年生の二年間だけのはずです。しかし、憧れの竜宮城、ロージナ茶房と桜並木のある花と緑の国立校舎に進学するためには英語4コマと第二外国語4コマの合計8コマの単位のほか各学部ごとの必須科目を一つを取得しなければならず、体育科目ではみな必ず50メートルも泳がなければなりません。

小平校舎には誰も立ち入らず雑草が生い茂る中庭を取り囲むようにして、巨大な煙突のある茶色い本校舎が鎮座しています。その外観から学生たちからは「小平刑務所」と呼ばれており、厳しい進学審査を経て小平から国立へ進学することは「脱獄」と呼ばれていました。

一橋大学のサークルはこの小平に拠点があるクラブと国立に本拠があるクラブに分かれており、柔道部は国立の東校舎に道場がありました。自然、稽古に熱が入る秋には小平から足が遠のきます。最初は親しく付き合っていたクラスメートともだんだんと疎遠になってゆきます。しかし、週六日も稽古出来る体力のない一〜二年生の柔道部員はわざと語学科目を四限目に組み込むことで、抽選に外れたと嘘をついて練習回数を減らします。稽古で疲れ切って授業には行かずに体育館の筋トレルームやヤロサイの六畳間で寝ていることも幾度かありました。柔道部の人間にとっては小平は刑務所というよりも、むしろいっときの休息を得ることができる教会アジュールのような場所だったのかもしれません。

そんなくだらないことを考えながら、僕はいつの間にか小平校舎のあった場所に辿り着いていました。みどり薫る玉川上水の涼しげな風が吹いてきました。
(続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?