時代が動いた結果としての今(日和佐浦地区について考えるⅡ)
戦後の大きな社会変化と地方都市
現代の日本の社会について考える場合、恐らく3つの大きな出来事を抜きにしては考えられないだろう。言うまでも無く、まず昭和20(1945)年、太平洋戦争の敗戦である。政治、経済のみならず、社会、文化、そして生活に至るまでが、突然に大きく変化した。現代社会は、ここから始まると言っていい。
国土の多くが空襲によって焦土と化し、多くの国民の命が奪われた、その後始末と復興に向けた昭和20年代の後、朝鮮戦争などの国際情勢もあり、この国は工業技術をエンジンにした、経済成長の時代に入る。おおよそ昭和31年から昭和48年までの約17年間、日本経済は飛躍的な成長を遂げていく。この間に東京オリンピック(昭和39年)と大阪万博(昭和45年)という、経済成長を端的に象徴するような国家的なイベントが開催された。特に64年オリンピックは、大規模なインフラ整備のための格好の切っ掛けとなり、新幹線や首都高速道路、さらには地下鉄網から、道路舗装、拡張、ゴミ収集に至るまで、オリンピックを名目に、その形を変えて行った。都市圏にある様々なインフラは、ほぼこの時に整備されたと言っていいだろう。2020年東京オリンピックの背景には、ここから50年以上経て、明らかに老朽化してしまった都市部のインフラの再整備という意図も、当初はあったものと推察される。
高度成長は、まさにこうした時代区分(平安、鎌倉、江戸など)に匹敵するほどの大きな変化を、日本の経済・社会にもたらした。
これほど大きな変化が、「昭和」という一つの元号の3分の1にも満たない短い期間、わずか6000日の間に生じたことは、考えてみれば驚くべきことである。1950年代初頭の日本は、今から見れば、何ともつましく、古色蒼然とした社会だった。
高度成長,吉川洋,中公文庫
そして3つ目は、1986年から91年までのバブル経済とその崩壊である。詳細な背景は省くが、いわゆるカネ余り現象で、投資先を求め、土地や有価証券に多額の資金が集中して行ったのは知られている。
この3つのトレンドが、いい意味でも悪い意味でも、今の日本の社会の姿を規定したと言っていいだろう。おそらくこれに加えて、2020年からのある感染症の影響がこれに続くはずであるが、それはまた別な話である。
地方への影響の波及
この3つの出来事に関しては、多くの文献でも示されている通り、社会に対して多大な影響をもたらした。但し、それはあくまで都市部中心だったということは、理解しておかねばならないだろう。
まず戦災である。文献によれば、空襲による被災面積は、64,000haだったとされている。本土の面積は、37,800,000haであるため、国土の約0.169%が被害に遭った計算になる。しかし、被災家屋で言えば、223万戸であり、内地全戸数の約2割にあたる。つまり如何にピンポイントで人の居住地域を狙ったのかがわかるが、日本の森林面積は約25,000,000ha、約67%を占めており、可住地域は32.1%程度しかない。可住地域のうち、約0.527%が空襲を受けたということになる。 つまり、大空襲の影響を受けなかった地域も多くあるわけであり、それらの殆どは、森林を含む地域、すなわち地方であったということになる。
参考:「戦災復興 日本再生の記憶と遺産」 『日本経済新聞』 2011年(平成23年)8月10日 朝刊社会面
結論的に言えば、美波町は、直接的には戦災の影響は全く受けていない。その結果の古民家である。同地にある建物の詳細な築年度は、一括して見ることは出来ないが、例えば以下の記事にあるサテライトオフィスとして使われている建物は、築80年だそうであり、明らかに戦前の建築である。昭和15年頃、生活必需品の配給制などが始まり、三国同盟の締結や南進の国策決定など、時代がキナ臭くなってきた頃である。その頃に、木材を豊富に使い建てられた民家が、80年後に新たな役割を持つようになるのは、偏に戦災の影響が、この地には皆無だったことによるだろう。幸運とかそういうことではなく、単に漁村であったこの土地が、軍事的な重要性を持たなかったということでしか過ぎない。尚、同地から徴兵され帰らなかった青年も多数いるはずであり、この地に戦争の影響が皆無だったということではないことを付記しておく。
戦災によって、都市部は壊滅状態になり、昭和20年代には多くの人々が、都市部を離れて地方に移り住んでいた。これは東京と各地域の人口データを見れば明らかである。東京では、1920 年の 370 万人から、昭和15(1940) 年に 735 万人となるまで増加が続いたが、戦争の影響で、昭和20(1945) 年には 349 万 人に減少している。
こうした、東京他都市圏から地方への人口分散は、四国、徳島県でも例外ではなかったはずである。以下に、興味深い映像が残っている。これは、昭和20年代後半の岡山県政ニュース映画で、「どっと押しよせた労務者」と題された1本である。現在は完全に衰退してしまったが、昭和2,30年代には、岡山県がイ草の生産地として有名であった。そのイ草狩りのために、近隣の県から労務者(注:軍務者の反対語であり、本来差別的なニュアンスを持っていない言葉であった)が季節労働者として集まってきたというニュースである。ナレーションでも「遠く四国の各県から海を越えて、多くのイ草刈り労務者が」と言っている通り、徳島県からも多くの人々が集まったらしい。
この映像で注目されるのは、イ草狩りの人々が、軒並み若い男性であるということである。つまりこの時代には、地方に多くの若い人々が在住しており、出稼ぎ労働をしなけらばならない状況にあった、要するに地元の産業(主に一次産業)自体が、地方にいるたくさんの人々を賄うことが出来なかったということでもある。
高度成長は、製造業から始まり経済の成熟とともに、サービス業など、新たな産業を生み出していく。東京の人口は、終戦から10年後の昭和30(1955)年には、戦前の人口を上回り、800万人を超えている。これは都市部の復興と高度成長による、新しい仕事が生まれてきたことを意味しており、地方で暮らしていたこれらの若い人々が、仕事を求めて都市部に向かっていったということでもある。
タイムスリップした美波町の街灯
では美波町では、戦後から高度成長への人口の時代には、どうだったのだろうか。改めて、美波町の人口について見ていく。日本の場合、大正9(1920)年に第1回の国勢調査が行われており、以降5年毎にデータが残されている。しかしこと地方自治体の場合、明治以降、昭和、平成と大規模な町村合併が行われており、特定の地域の人口変動は、地域史を前提にしないと把握できない。幸い美波町は、比較的わかりやすい合併を行っている。以下に、簡単に整理する。明治22年に発足した、阿部村(あぶそん)以下4村が、最終的に平成18年の美波町発足に繋がっている。
これらの地域を国勢調査データを元に整理すると、以下のようになる。
このままでは視認性に乏しいので、グラフ化して見ると、美波町は以下のような人口変動があったことがわかる。赤の棒が旧日和佐町、青が旧由岐町であり、美波町全域を折れ線グラフで示した。
確かに、戦前の昭和15年から昭和22年までは、美波町は人口増加の傾向にある。しかしそこをピークに、既に昭和30年には人口減少の傾向が始まっているのもわかる。これはまさに東京のデータとも同期しており、高度成長期に、都市部で生まれてきた製造業から経済の成熟とともに、サービス業など新たな産業が登場し、それらがこの人々を吸収して行ったと考えて間違いが無いだろう。高度成長期には、既に美波町は(もちろん殆どの地方も)人口減少の局面に入っていたというのが事実である。
東京ではオリンピック、大阪では万博をトリガーにして、旧来の諸々が壊され、リニューアルされて行った。しかしどちらにも直接の影響がなかった地域では、地域のハードウェアは作り変えられることも無く、残り続けた。美波町もその例外ではないだろう。恐らく、日和佐浦地域は、その頃と殆ど変わらない佇まいなのではないだろうか。
それを推定させる、ある光景をStreetViewで発見した。「日和佐浦地区について考えるⅠ」で示した路地「あわい」の様子であるが、そこに通称傘電と呼ばれる、裸電球に傘を付けたタイプの街灯がある。都市部ではもうほとんど見ることが出来ない形状のもので、オリンピック前後にほぼ全てが蛍光灯に置き換わって行った。
高度経済成長期(1960年代)に普及した蛍光灯、それは紛れもなく「幸せのシンボル」でした。白くまばゆい光が豊かさのしるしだったのです。
但し、この街灯には裸電球ではなく、形状からするとLEDらしい電球が刺さっているのは、現代的でもある。高度成長期に起こった大きな変化の波もそれほど被らずに、あたかも現代にタイムスリップしてしまったようなこの地域を、LEDと傘電が象徴しているように思えてならない。こんな何気ない景観は、StreetViewでしか気が付かないかもしれないが。
その後、2度のオイルショックを経て、日本の急激な経済成長は停滞する。そこから、いわゆる成熟社会と呼ばれる社会的な安定期に入るが、特に外的な要因もあり、1986年から「バブル経済」という大きなトレンドが起こって行く。この原因など詳細に触れる余裕はないが、余った金が、投資先を求めて土地や有価証券などに対して集中して行くことになる。都市部の不動産を巡り、投機が行われ、それに合わせて地上げなどが横行して行った。このバブル期に、都市部では戦後の痕跡が、ほぼ失われて行くことになる。この影響は、都市部だけではなく、リゾート開発という方向性で、地方にも波及して行ったのが、この時の特徴である。特に現在に繋がる切っ掛けになったという点で、興味深いのは、神奈川県真鶴町である。
首都圏から80キロ圏で、漁港を抱える真鶴町は、距離感としても手軽な場所にあり、また古くから臨海学校や遠足の場所として知られており、場所のイメージも決して悪くはない。既に昭和30年代後半からの観光ブームの際に、最適な観光スポットとして注目されており、昭和40年代半ばにはリゾート地として開発され始めている。そしてバブル期には、大規模リゾートマンションの建設が行われた。例えば以下は、読売新聞 1989年7月13日 別刷の広告である。当時としては、大変な高級リゾートマンションである。
もともと真鶴町は、地域内に河川が存在しないため、隣町から一部の水を供給を受けていた。そのため、マンション建設により人口の急増とそれに伴う水資源の不足やごみ処理の問題などが懸念され、1990年に、新町長の元、「上水道事業給水規制条例」が同地では制定される。これは、開発規制条例として、今では広く知られることになる「美の規準」に繋がって行く。その詳細に関しては多くの記事などに取り上げられており、また本旨ではないのでこの程度に留めておくが、デベロッパーからの訴訟などを含め、一連の開発規制条例がこの地に大きな波紋を呼んだようである。
しかしまさに開発規制条例が、今の真鶴の姿を作り上げて来たのは間違いの無い話である。実際に同地に行ってみると、その頃の名残であろうか、いくつかの大きなマンションも見ることが出来るが、元々漁村であったこの土地とは、余り相性がいいものには感じない。
そして真鶴町は、平成29(2017)年に神奈川県下で初の過疎指定を受ける自治体になった。そのことの良し悪しを判断することはできないし、開発規制との関係もここでは判断出来ないが、その出発点として、バブル期の異常ともいうべき時代性があったのも、また間違いの無い話である。そしてこの町の人々は、現在の姿を選んだということこそが、重要な事実であろう。
真鶴のように、あの時代の土地投機やリゾート開発に翻弄された場所は、少なからず存在する。しかしこと美波町で言えば、いろいろニュースソースを当たっては見たのだが、海部郡を含め、その頃に起こったことは、皆目わからない。唯一、同じ海部郡の海陽町(旧宍喰町)が竹下首相時代の「ふるさと創世1億円事業」で、温泉掘削をしたという記述である。
1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)まで行われた、「自ら考え自ら行う地域づくり事業」通称「ふるさと創生一億円事業」は、当時のバブル経済を象徴するような政策であった。各自治体に交付された1億円で、金塊を購入したり、モニュメントを作ったり、挙句の果ては村営キャバレーを開設するなど、今だからあえて言うが、「愚策」のオンパレードであった。しかしいろいろ調べてみたのだが、美波町はおろか、その頃の徳島県関連の事柄を殆ど見ることは無い。今となっては事情は定かではないが、端的に言ってバブル経済自体が、大きな影響を及ぼさなかったとしか考えられないだろう。
戦後の日本の姿を作り上げて行った、この3つの大きなトレンドは、この町の佇まいに大きな影響を及ぼさなかった。結局、そう考えるしか、この町の今の姿を説明できないのである。大事な資産として丁寧に残したわけではなく、昔と変わらない地域の暮らしが継続した結果なのだろう。つまり、「ケ」の姿が「ケ」のまま残った場所なのである。美波町地域には、大掛かりな祭りがいくつもあり、広く知られている。いわゆる「ハレ」のできごとであるが、その「ハレ」を成立させているのは、平穏な「ケ」、日常なのだということ、この場所の価値は、偏にそこにある。
つまり、時代が巡って、取り残されてしまったはずのものが、価値を持つに至った。例えば真鶴町のように、人々の不断の努力によって手に入ったものではなく、時代と離れて日々を過ごした結果の、古民家の佇まいなのである。こんなに幸せな地域は無いだろう。
おそらく日和佐浦のこの状態は、これから先、何十年もこのままだとは決して思えない。暮らしている人々は高齢化をして行くだろうし、建物自体もこれから先何十年もこのままであり続けるとも思えない。しかし、都市部のように近代建築に置き換わっていくとも思えない。恐らくは、美波町だけでなく、様々な地域の古民家と同じように、例えばリノベーションをするなどして景観を保ちながら、古民家活用の動きが進んでいくのであろう。実際に日和佐浦で検索をすると、大学などがそれを提案し、推進しているようである。実際、美波町では桜町通という門前町にある建物が、次々とデザイン性の高い、都市部では決して見ることの出来ないような、再利用形態の建物に置き換わっていく。同町の代表的なサテライトオフィスである美雲屋は、築150年にもなろうとする古民家だそうである。
150年前、少なくとも、この家が建てられた時に立ち会っていた人は、もう一人もこの世にはいない。こうしたリノベーションを見ていると、どうしても女川町という場所と、テセウスの船という説話を思い出す。
女川の駅に立って感じたこと(レジリエントな町)
話しは、北の町に跳ぶ。宮城県牡鹿郡女川町、三陸地方南部に位置し、太平洋沿岸に面する日本有数の漁港である女川漁港がある。豊かな海の幸を味わえる観光地で、港の傍にある「マリンパル女川」という観光施設が賑わっていた。女川駅は、2002年(平成14年)10月14日(鉄道の日)に「東北の駅百選」の一つに選定されている。
しかし2011年に起こった東日本大震災と津波のために、女川町はほぼ壊滅的な打撃を受ける。死者、行方不明者が人口の1割、家屋は7割が被害を受けたそうである。筆者は、仕事の関係で2017年に訪れたが、女川町は見事なまでに違う街になっていた。新たに「シーパルピア女川」という新たな商業エリアが作られ、復興に向けた努力が伺われる。
かつての女川町は、歴史のある漁業の町らしく、少し雑然とした町の佇まいが、魅力的だったが、それは全て失われた。そしてそれなりの時間を掛けて、町が新たに作られた。その間の地元の人々の苦労は想像に難くない。
女川駅を出てかつては駅からは見えなかった海を臨む「シーパルピア女川」という、津波で失われたかつての商業施設であった「マリンパル女川」の遺伝子を継ぐような場所を眺めていると、「テセウスの船」というパラドックスを思い出す。
ある物体において、それを構成するパーツが全て置き換えられたとき、過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か
恐らく費用的にも時間的にも、マリンパル女川のような堅牢な大規模な施設は作れなかったのであろう。さらに再び津波が襲ってきたとしても、被害が最小限になるように、シーパルピア女川はフラットな建物が横に並ぶ形式である。これは、震災復興では珍しく、レジリエンスを意識したものだと評価している。津波の高さから換算して、それ以上の高さの堤防を作るという試みは、あの震災以降しばしば耳にした。それらは力に対して力で戦う、ハードアプローチである。女川は、そうではなく、衝撃に対して出来る限り被害を軽減し、早急に復旧できる策を選んだのだろう。
昔の面影が全く無くなった女川町は、別な町になってしまったのだろうか。女川町のパーツは全部入れ替わってしまったが、「過去のそれと現在のそれは「同じそれ」だと言えるのか否か」。今の女川町は、昔の女川町とは同じものなのか、それとも全く違う町なのか。正直言えば、そんな問いかけとは無関係に、女川町という場所があり名前があるのだから、これは何の意味も無い問いだというのはわかる。だが、消え去ってしまった、昔の女川町の景観は何だったのだろうか。それが今とどう繋がるのだろう。なまじ過去を知っているがために、今の女川を見ると、どうしてもその問いが消えないのだ。
町の中に、地域のコアコンピタンスとしての漁業を支える、観光センターを置き、町の経済を回して行く、この点に関しては、女川町は全く揺らいではいない。力に対して力で抗うことを止めただけである。だから、自分の知っている女川町の景色は無くなってしまったが、女川町は今も女川町なのだ。それは、駅前に降りたときにすぐ理解できた。こうやって町は変わって行くのだろう。
つまり、見えるものが残ること自体が重要なのではない。なぜ町が生まれてきたのか、そしてどう変化してきたのか、その町で何が大事にされてきたの、その記憶と記録も残るべきなのだ。でなければ、かつてこの町にあった光景は存在しなかったことになってしまう。
老朽化という見えない確実な災害
震災や津波など、自然災害の恐ろしさは、特に携帯電話やデジタルカメラなどが普及して以降、よりはっきりわかるようになった。都市、地方を問わず、災害は大きな課題である。美波町でも、約100年から200年周期で発生すると予想されている東南海地震、南海トラフ地震などに対する対策など、盛んに行われている。
直近で言えば、1944年(昭和19年)12月7日に、紀伊半島南東沖を震源として、通称「昭和東南海地震」が起こる。さらに、1946年(昭和21年)12月21日には、通称「昭和南海地震」、「1946年南海地震」と呼ばれる地震が起こっている。戦中、戦後の出来事であるが、いくつか記録が残っている。
四国災害アーカイブズには、旧日和佐町に関する記述がある。
津波は昭和19年の東南海地震の時と同様に押し寄せたが、日和佐町の被害は牟岐や由岐などに比べて軽微であった。被害は、死者1人、家屋の倒壊2戸、半壊21戸、床上浸水55戸、床下浸水166戸、船舶の流失20隻、破損115隻であった。
築150年の古民家が美波町に残っているのは、被害が軽微だったということに起因するだろうが、当時は古民家ではなかったということでもある。
非常に単純な言い方ではあるが、社会基盤(インフラストラクチャ)は、我々の生活を成立させている。震災など災害や戦災は、社会のインフラを破壊する要因である。ただ同等以上に、社会のインフラが崩壊していく用意として、経年劣化もあることを忘れてはならない。前述のように、都市部では殆どのインフラが東京オリンピックを契機に整備されて来ており、モノによっては、相当危機的な状況にあると言えるだろう。
日和佐浦の古民家群は、ここまで考察してきたように、戦災、震災や社会変化の波を免れてきた結果の佇まいである。しかし、老朽化だけは免れないだろう。法定の耐久年数で言えば、木造住宅は22年である。物理的には、条件などによっても異なるが、大体65年程度だと言われている。都市部の木造家屋を見る限りは、ほぼ納得するデータではあるが、そこから考えると、美波町の木造家屋群は驚異的な耐久性であると言えるだろう。使われている木材そのものが違うのかもしれないし、都市部とは違って酸性雨や排気ガスなどの影響も低いのかもしれない。住人のメンテナンスも要因であろう。
今後、これらの古民家に対して、リノベーションが進んでいくであろうことは間違いない。既に何らかの手を加えなければ、物理的には限界だからである。では、古民家が手を加えられて新しい役割の家として機能し始めた時、それは「元の家と同じ家なのか」、多くの民家が変わって行ったとき、それは「元の町と同じ町なのか」。
暴言を承知で言うが、いくら上手に古民家の再生をしたとしても、それはかつての家が、役割を終えることであり、一度破壊されることに等しいのではないか。その意味では、戦災、震災とリノベーションは、程度の差こそあれ、地域に同じインパクトを与えるのではないか。繰り返しになるが、良し悪しを指摘しているわけではなく、家であれ町であれ、新しくなるということを考えたいのである。すべからく新しいものになるためには、その時点までのものが一度破壊されなければならない。
美波町日和佐浦地区の民家群は、軒並み老朽化が進行しているのは、Street Viewでもよくわかる。今後何十年もこのままの姿ではいれないだろう。保存するための規定ができるかもしれないし、リノベーションを中心に、その他の試みも行われるかもしれない。いずれにせよ、この地域のこの状態や光景は、そろそろ終わりになるはずである。
「村看取り」と記憶
最近使われるようになってきた言葉に「里じまい」というものがある。かつて多くの人々が暮らしてきた地方の集落が、高齢化と住民の減少によって、地域そのものの維持が出来なくなり、地域そのものから住民や行政機能が撤退することを意味している。積極的な廃村と言ってもいいだろう。
筆者は、徳島県海陽町の高知県との県境にある久尾という集落に、学生と共に訪れてフィールドワークをするという経験を、6年ほど前にしている。同地は、かつては林業の町として栄えていたが、林業の衰退により、残された住民が細々と農業を継続して、ほぼ自給自足の生活を送っている。その頃は、住民が24人ほどで高齢化率も相当高い地域だった。農業地域ということで訪れたのだが、実は元々林業を中心とした地域で、戦前から戦後にかけて、非常に栄えていた地域だということを、数年出入りしてやっと聞き出すことが出来た。
と言うより、住民の方にとって、林業で栄えていたという記憶は大したものではないと考えたか、単に忘れていたということなのだろう。その時に見せてもらった写真の一部である。尚、再利用は承諾済みである。
この地域に出入りして、4年目にして初めて見せてもらったこの写真で、やっとこの集落のことがわかったと言っても過言ではない。この地域はこうやって成り立ってきたんだということ、そして長い歳月の結果が、今の限界集落なんだということ、などなど。そういう目で見ると、なんと素晴らしい写真なんだと思う。昭和20年代後半位だろう、まだまだ木材が復興のためにも重要な資源であった時代に、若い人たちがこの土地で林業に従事していたということがわかる。左側の写真に写る場所は、以下だそうである。確かに瓦屋根の木造家屋がそのままである。
要するに、最初から過疎、限界集落だった地域など存在しないのである。時間軸で見ない限り、わからないことはたくさんある。里じまい、村じまいなど、集落の行く末は集落の人間が自ら考えるべきである。しかし、その集落が無くなる時に、その集落の記憶と記録を残す必要は、絶対にあるだろう。今の女川町にとって、3.11があったことは決して抜きにしては考えられないように、それがあることによって、今の光景の持つ意味が明らかになっていくからである。
例えば、この手書きの図は、昭和25年頃の川崎に存在した、元闇市が発展した日用品市場の配置を示したもので、当時を知っている高齢者が、平成になって記憶をもとに再現したものである。
単に高齢者のノスタルジーとしか見れないかもしれないが、これは川崎で市民の自主活動として造られた連続シリーズの冊子の中の記述である。この冊子自体、殆ど知られていないが、市民の聞き書きとしても貴重なものである。
実は日用品市場は、近現代を考える時に重要な研究対象である。
高度成長期のスーパーマーケット登場まで日用品の購入に大きな役割を担っていた小売市場。米騒動の前後から、一つには社会政策的な意味、一つには低賃金による国際競争力確保のための物価抑制策として、各地の都市に開設され始めた公設市場をめぐり、その実態と商人や商人団体の思惑の交錯が活写される。
つまり、社会的に見れば、地域は共有財産、公共財なのである。それが新しくなるということは、社会的に「棄損」することでもあるのだということを考えねばならない。誤解を恐れず言えば、戦災であれ震災であれ、老朽化であれ、そしてリノベーションや新しい移住者の登場であれ、町は一回そこで終わるのである。少なくとも、それで違う町の姿になって行くわけだから。
おそらく、地域には看取りが必要なのだ。少なくとも、昔の姿ではなくなる時に、その前の姿はどうであったのか、例えば葬儀の後、故人のことを偲ぶように、町にも記録を残して、たまにはそれを振り返ることも重要なことだと考えるのである。筆者らは、地域と関わる時に、地域の高齢者から話を聞き、住民の目線で見たその町の来歴から、地域の理解をするという方法論を実践している。人には寿命があり、例外なく必ず老い、そしてこの世を去ることになる。であるがゆえに、その個々人がその町で過ごした時間を、少しでも地域の資産として記録して行きたいのだ。それは、我々の中では、非常に婉曲な地域の看取り行為、すなわち「村看取り」だと思っている。川崎の古老にとっては、どんどん変わっていく川崎を目の前にして、記憶を頼りにかつての姿を記録していくことが、大きな「村看取り」だったのだろう。
時代の動きに対して、その町がどういう位置だったのか、それはその町を知るには書くことができない重要な内容である。美波町のように、時代の変化に対して、全く関わってこなかったような町には、その町ならではの背景があり、それもまた美波町の「今」である。戦後95年を経過した現在では、今残っている町の景観は、経緯はどうであれ、町の資産であることは確かである。日和佐浦地区の、二階部分が低い構造の間口の広い、町屋とは異なった佇まいの古民家が立ち並ぶ姿は、誰もの耳目を惹く。そして、保存や景観を利用したリノベーションなどに進んでいくだろう。
拙文の結論であるが、日和佐浦の「村看取り」は要らないのだろうか。例えばトップ画像に示した、笠電の残る路地の「あわい・間」に面したこの家々は、いつ誰が、どういう用途で建てたのか、どういう人がどう暮らして行ったのか、こうした記録は不要だろうか。もしかするとこの地域が数十年後に大きく変わってしまった時に、この町で暮らしていた、その時のご老人が、かつての記憶をもとに町内の図を描いたりすることになったりするかもしれない。
今回、直接美波町という場所に足を踏み入れずに、いくつかのオンラインサービスを利用して、地域を眺めて行った。学生達を含め、余所者の目線は、地域側からすると不本意なものかもしれない。本当の美波町はそんなもんじゃないという意見もあるかもしれないが、あくまで「そう見える」ということであり「こう感じた」ということである。実際に足を踏み入れてフィールドワークをするならば、この日和佐浦をここまで観察はしかなかったと思う。
StreetViewは、あくまで公道から見た、「人の眼」の代わりである。もう一つ、Google社の、GoogeEarthも活用した。これは「鳥の眼」である。これを使って、日和佐浦上空224メートルの位置から見下ろしてみた。
日和佐浦の入り口から、路地の左側に4軒民家が並び、空き地があり、もう1軒民家があり、路地がある。そこから先にいった5軒目が、この笠電のあるお宅である。
などということすら、オンラインでわかってしまう時代である。個人情報やプライバシーなどという問題も、付きまとうのは承知の上で、これらの記録を残すべきだと考えている。日和佐浦のこの一帯の記録を残して行くのは、こうした情報技術を利用すれば、大して難しいことではないだろう。
本プロジェクトワークをやってみて、わかったことがある。GoogleのStreetViewは、都市部では1年おき、人口の少ない場所では2~3年おきに更新されていると言われている。しかしこと美波町では、ほぼ全域が、2013年の撮影で、以降7,8年ほど全く更新されていないことがわかった。
下に示すのは、美波町のメインストリートである桜町通から薬王寺方面を眺めたものであり、撮影は2013年12月になっている。
同じ場所を、美波町の政策推進課さんに撮影してもらった映像のキャプチャが以下である。その後、左側の民家がリノベーションされて中華そば屋の看板が出ているのがわかる。元の民家の佇まいが上手く残されており、こうやって町が新しくなっていくことが想像できる。
StreetViewのように、何の意図も無く、ただ機械的に撮影した映像すら、時間が経てば貴重な記録になる。であるとするならば、人の意思によって、今の町並みを記録していくことで、より貴重な地域の資産が作れるのではないだろうか。
時代の動きとは全く切り離されたところにあったこの地域が、そのことで価値を持ち始めてきている。そのこと自体、非常に興味深い現象だが、災害が無くても、形あるものは絶対に失われて行くわけであり、この光景もいずれ新しいものになって行くだろう。その新しい光景は、どこから来たものなのか、その記録を残して古い光景を看取る必要があるのだろう。
美波町のバーチャルフィールドワークを実現してくださった、同町政策推進課さんに感謝いたします。