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問題は情報過多(爆発の後の戦略を考える)

 以下の小文は、いつか論文化しようと思っていた内容だが、考えがまとまらずに、機会を逃したまま、ここまで来てしまった。スタートした研究プロジェクト「過疎自治体ファンクラブ」の実施に当たり、コアとなるコンセプトとしても、まとめておく必要があると考えている。

0.何が問題なのか

 情報爆発という言葉が、しばしば耳目を賑わせるようになったのは、いつの頃からだろうか。英語では、Informatin Explorsionと言うが、同時期に使われていたInformation Tsunamiという言葉は、3.11を契機に使われなくなった。残された凄まじい津波の映像を見る限り、確かに言葉の使い方としては適切ではないと言えるだろう。ただ「爆発」よりもある意味、現象の本質を突いてもいる。これに関しては後述する。
 元々は、1999年に行われたUCバークレー校の、How much Informationというプロジェクトの成果が、2000年に発表されたことが、この情報爆発現象に大きく注目が集まる契機となっている。このプロジェクトは、人類による情報の生産や使用に関する統計調査を行ったもので、20世紀の終わりにおける新たな社会変化を示すキーワードとして、日本でも話題になった。文科省の「情報爆発特定領域研究」や経産省の「情報大航海プロジェクト」などが展開されたのは、まだ記憶に新しい。

 言葉として、「情報爆発」という語は、確かに人類のある時期を示すのに最適な表現ではあるが、決して一過性のモノではなく、起こり続けているとともに、蓄積が続いているということも重要である。要するに、大量の情報が生まれ、ばら撒かれただけではなく、その上に次から次へと堆積をしているという現象が、大きなインパクトを持っていると言えるのである。
 津波は、波の高さが怖いのではなく、波が続けざまに押し寄せることが怖いということを聞いたことがある。波の背後に、より多くの波が同じような衝撃を持って続く、これを情報に置き換えたものが、今の情報化社会の姿だろう。爆発だけではないのである。

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 情報爆発と言えば、このような図をしばしば見ることがある。この現象のすさまじさを端的に示すものではあるが、実はこれは情報の発生に着目したものであって、情報を受け取る側、要するに「情報の消費者」側の観点から見ると、決してこうではない。
 例えば、2000年には6.2エクサバイトの情報が創られた。2003年には、32エクサバイト、2006年には161エクサバイト…。しかし例えば2006年の人類は、161エクサバイトの情報だけを受け取るのではないという点を指摘する。以下の図のように、その前の年、その前の年といったように、既にその時点で創出された全ての情報に、新たに161エクサバイトの情報が付加されているということなのである。

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 これは、例えばGoogle検索で実感することがあるのではないだろうか。ある検索結果が膨大な数があったとしても、既に消えてしまったWebページも含まれていたりするのは、こうしたことの現れでもある。創出された情報は、そのまま蓄積し、さらに新たに創出された情報と一体になって我々に提供されるのである。まさに津波のようである。

 元々、個体としての機能、能力が、他の動物よりも劣る人類は、集団を構成し、文明を切り拓くことにより、生存、発展してきた。そのためには、情報を扱い相互にやり取りをすることが必須であった。その意味では、人類の登場と情報の発生はシンクロしているわけだが、文明の発展の結果として、それを支えている情報が増加しているということは、既に1960年代に、「情報オーバーロード(information overload)」という概念として問題提起されていた。

情報過多によって必要な情報が埋もれてしまい、課題を理解したり意思決定したりすることが困難になる状態を指す。初出はバートラム・グロス(英語版)の1964年の著書である。アルビン・トフラーが1970年のベストセラー『未来の衝撃』で一般化させた概念。情報洪水、多すぎる情報などともいう。                         Wikipedia

 当時は、電気メディアを用いたマスコミが、人類の情報伝達の主流であり、それらによる弊害を指す概念であった。意味合いは異なっているだろうが、昭和30年代のテレビの普及に併せて、社会評論家の大宅壮一が生み出したとされている「一億総白痴化」という言葉の背景にも、同じような問題意識を見ることが出来る。

 但し情報爆発というトレンドは、情報の性質上、人類の創生から作られた全ての情報が、我々を取り囲んでいるのではないということも併せて指摘する。例えば、マスメディアの代表である、新聞について考える。毎日発行される新聞には、どの位の情報が含まれているのだろうか。

朝刊一紙が40ページとすると、50万4,000文字になります。 これを400字詰め原稿用紙に換算すると、1,260枚になります。 また、一般的な文庫本は、1ページの文字数がだいたい600~700文字ですから、文庫本に置き換えると840~720ページとなり、文庫本2~3冊分の文字の情報量と同じになります。

 リチャード・ワーマンというアメリカの建築家でグラフィック・デザイナーが、特に情報デザイン関連で指摘した言葉がある。

「ニューヨーク・タイムズの平日版の情報量は,17 世紀イギリスの平均的な人が人世の間に得るであろう情報量よりも多い.」  情報選択の時代

 現代においては、確かに大変な量の情報が、日々発信されているのは間違いない。しかし、こと新聞で言えば、数日前の新聞はまず誰も率先しては読まなくなる。「ニュース」としての価値が低下するためであるが、さらに紙媒体なので、数日前の記事を探すことすら困難になってしまう。そして媒体そのものが劣化していくのである。これはテレビやラジオなどの電気媒体では、より顕著である。一度放送されてしまったコンテンツは、意図的に録画、録音しておかない限り二度と目に触れることは無い。つまり、既に問題提起はあったとは言え、マスメディアが中心的なメディアだった時代には、情報は常に作られて行ったが、同時に消えて行った。小さな爆発が毎日起こっていたにすぎないのである。それでも、人間にとっては脅威だったのだろう。まだ情報の爆発現象は起こってはいない。情報が爆発するトリガーには、大きく2つの要因がある。

 おおよそ1990年代後半から、様々な情報がデジタル化されて行くようになった。情報技術の進歩により、いわゆる「ボーンデジタル」と呼ばれる、デジタルによって生成された情報が登場することになった。21世紀には、写真や音楽媒体などの他、テレビを含めたマスメディアもデジタル化され、Webシステムを中心としたネットによって、伝達、流通されて行くようになった。一度デジタル化され、ネットで流通された情報は、無限にコピーされて増殖し、全世界に流通し、そして蓄積されて行く。そして蓄積した情報を再利用するために、検索エンジンを中心とした様々なWebサービスが登場してくる。これによって、我々は日々生成される多くの情報が日々蓄積しながら増殖していく環境に突入していくのである。全ては、デジタル化から始まったと言っても過言ではない。20世紀の時代を生きた人々に関する情報は、それが有名人や公人であっても、ネット上には殆ど存在していない。例えば大正の末に生まれ、平成の半ばにこの世を去った亡父に関することは、ネット上で検索しても一切わからない。情報の蓄積が日々連鎖する情報爆発は、21世紀初頭のデジタル技術から始まったと言えるのである。
 さらにそのデジタルのトレンドに合わせるように、サービスとしてソーシャルメディア(SNS)が登場し、ハードウェアとしては、スマートフォンが登場する。これが情報爆発を引き起こす、2つめの要因である。
 主要なSNSで言えば、Facebookが2004年2月、Twitterが2006年7月、国内のサービスだがMixiが2009年8月、instgramは2010年10月にサービスを開始している。意外なことに LinkedInはそれらよりも早く、正式リリースが2003年である。またそれらのプラットフォームであるスマートフォンは、iPhone第1世代が2007年1月に発表され、同年6月にアメリカで販売が開始された。2008年をSNS元年と言っていいだろう。そしてこの両者によって、マスではない、一般市民が情報発信手段を手に入れることになった。
 つまりデジタルの機能によって、発信された情報は、決して減衰、消滅することなく蓄積、流通され続け、そこにSNSの時代になって、情報の発信者自体が急激に増加したということが、情報の急激な増加を引き起こしたと言っていいだろう。

 結局、情報はたくさんあるのである。しかし必要な情報が得られなかったり、あるいは質の悪い情報に埋もれてしまったりして、必要な情報を得られない、すなわち人間の処理能力を超えてしまっているというのが、情報爆発の中にいる我々なのだ。

1.情報過多(Information Excess)

 問題はとにかく、情報が「多すぎる」のである。人々の処理能力が追い付かないとか、質の悪い情報が多いなどというのは、さらにそこに起因する問題だろう。爆発の結果が蓄積し、その上にまた爆発が起こっていく、おそらくはこれからもずっとそういう社会が続くのである。

 こうした事実を、ここでは「情報過多(Information Excess)」と呼ぼう。情報が溢れていることを示す概念、用語には、前述の情報爆発、情報津波、そして情報オーバーロードというものがある。どういう言葉を選んでも事実は変わらないのだが、問題は、情報そのものが「多すぎる」、過多というところにある。実は、情報過多と言う言葉は、社会における現象を示す言葉としては、殆ど使われていない。例えば、情報が溢れる社会におけるメンタルの文脈で使われているものがある。多くの情報を処理できずに脳がオーバーフローを起こした状態を「情報過多シンドローム」と呼ぶそうである。

 また英文としては、特に医学情報に関する問題として指摘されているものがある。

 原因には爆発があろうが、そして受け手側が過剰負荷となろうが、要するに、情報が多すぎる、「情報過多(Information Excess)」という現象が起こっているのである。

2.「多すぎる」とは?

 一口に「情報が多すぎる」と言っても、ことはそう単純ではない。様々な要因や形態の「過多」があるだろう。ここでは、それを分類し、さらに過剰状態の対象に向けた基本戦略を考察する。

 図に示すのは、言うまでも無く、シャノンとウィーヴァーによるコミュニケーションモデルと呼ばれる図式で、電話など電気通信を想定した、人相互のコミュニケーションの構造を示したものである。元々の出典は、1949年に書かれた古典的なものであるが、その頃と、人間が全く異なったコミュニケーション能力を身に付けたというわけではないし、マスであろうとデジタルであろうと、グローバルであろうと、基本的な構造はこの通りである。

SHANNON, Claude E. & WEAVER, Warren (1949)『コミュニケーションの数学的理論』(The Mathematical Theory of Communication)[長谷川淳・井上光洋]

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 これは、情報には、発信者と受信者が存在し、発信者が生み出した「情報」というある存在が、媒体によって運ばれる。という構造のモデルである。音声による口頭のコミュニケーションですら、空気という媒体によって運ばれるわけであり、全てのコミュニケーションを、このモデルで解釈することが出来る。情報が伝わらないことに関しては、媒体に加えられるノイズによるものということになる。

 このモデルで考えると、情報過多という現象には、発信者、受信者、媒体、ノイズにそれぞれ起因するものが考えられるだろう。
 例えば、①発信者の多数、②情報の偏在(非対称関係)、③多メディア、④メディアの保存メディア化、⑤多量のノイズそして情報そのものに関して、⑥複製と流通の容易さ、⑦検索の高度化、などが考えられる。これらは相互に関係しているが、さらにその結果として、情報の変形、解釈の多様性などが引き起こされて、情報過多という現象が生起する。
 ①の「発信者の多数」は、恐らくは21世紀になって突如起こった情報爆発現象の、主要な要因であることは間違いないだろう。③「多メディア」とも関わるが、一般消費者、大衆が、自由に情報の受発信が可能となる、ソーシャルメディアなどのサービスの登場と、スマートフォンやタブレット等のハードウェアなどの一般化、低価格化などが、それを引き起こしたと言っていいだろう。情報発信の費用、労力が下がることで、多くの人々が、自由意志によって情報を発信し始めるわけである。但し、全ての人々が情報の扱いにおいて、マスメディアなどのように、高い能力を持っているわけではない。多分に主観性が強かったり、不確実な情報発信であるなど、情報の精度が低下した状態になることが多い。そもそも情報には、多くの人々が扱うことで解釈が加えられ、新たに情報を生み出していくという、エントロピーを増大させる性質がある。①によりこのプロセスが急増することになるが、その過程で、人々による多様な解釈や変形などが行われて行く。こうした現象は、Twitterなどでしばしば目にするだろう。リツィートするだけで同じ情報が複製されて行くが、さらにそれに対して、引用し新たにツィートすることができる。これが解釈や変形の例であるが、明らかに情報の量は急増する。
 ②の情報の偏在は、非対称関係として特に経済上の取引関係で取り上げられることが多い。マスメディア中心の時代では、情報優位側が情報発信者であったが、ネットに移行すると、情報優位、劣位問わず、均等に情報発信が出来る。こうして様々な質の情報が溢れることになるが、現在の情報環境で主要な情報の獲得手段である、検索サービスでは、情報のコンテンツそのものに対して一切の評価を行わずに結果を出力している。
 例えば、最もメジャーな検索サービスのGoogleでは、ページごとのリンク関係に着目しランク付けをする、ページランクアルゴリズムによって、順位付けをし結果を表示しているのは知られている。そこでもしばしば体感するが、検索結果は玉石混交である。どんな内容の情報でも、リンク関係に基づいた評価アルゴリズムによって検索されてしまうためであり、それがGoogleの検索サービスが言語を問わず世界的に使われている理由でもある。これが⑦検索の高度化であり、人々は情報内容に依存しないかたちで、数多くの情報を得ることは可能となる。しかしそれは、特定の情報に対して、情報劣位にいる人々にとって、それらをスクリーニングする手段は殆どないということになるのである。
 こうした情報劣位者による、多分に主観性の強い情報は、原情報に対して情報の精度を下げるノイズでもある。現在では様々な人々が、様々な場所、環境で情報発信を行うため、保有する情報の量に偏在が起こることが考えられる。例えば、ある出来事の現場にいる目撃者と、それをニュースなどの媒体で知る人間と、さらには口コミやTwitterなど、パーソナルな性格が強い媒体で知る人々では、自ずと保有する情報の量に違いがあるはずである。実際Twitterでは、特定の出来事や情報に対する感想や感情吐露などが、多くを占めている。しかしそうした情報の背景や主体の状況とは無関係に、発信された情報は流通されて行くことになり、多量のノイズの結果として、数多くの精度の異なる情報が溢れるという現象が起こる。
 メディアに関しては、③多メディア、④メディアの保存メディア化が挙げられる。現在では同じ情報でも、様々な媒体で流通することが多く、特にあるメディアが別のメディアの情報を取り上げることが多い、例えば、SNSでは、テレビや雑誌などのマスメディアからの情報を話題にすることがしばしば行われているが、近年では、マスメディアでもソーシャルメディアでの情報などを取り上げることも多く見ることになる。つまり多くのメディアをまたがって多くの情報が流通することになるが、メディアによって情報の表現や切り取り方、さらには情報そのものの解釈なども異なって行くため、原情報が一つであったとしても、多くの情報を生み出すことになる。
 さらに、旧来のアナログ媒体は、情報の発信、流通が中心的な機能であった。しかしそこから発信された情報を保存したり、過去の情報を遡って探すことは、ほぼ不可能に近い。新聞やテレビなどでは、多くの人々に最新の情報を広く提供することが可能であり、それ自身がメディアの価値でもある。しかし、高々数日前のニュースですら、その媒体のみでは得ることは出来ないし、録画などしたとしても保存の費用や労力は膨大なものとなる。
 しかしデジタルメディアでは、保存に関する負荷はごく僅かであり、それらを検索することも可能である。現在では、クラウドを中心に、ネット上に様々な情報が保存され、さらに検索サービスを用いて、それらに対するアクセスも容易となる。つまりマスメディア、アナログメディアは、情報の発信、流通を中心的な機能としていたが、デジタルメディア、ネットメディアでは、情報の保存の機能が付加されていく。この④媒体の保存メディア化は、情報の過多を生み出していく。さらにデジタルメディアでは、⑥情報の複製と流通も容易なものとなるのは言うまでもない。

 ここで述べたように、現在の情報爆発環境の元では、情報そのものの量の増加とともに、様々なメディアや発信主体によって、情報の変質、変形や多様な解釈が行われるなど、精度の低い情報が混在してしまうということも、情報過多という現象を引き起こしていると言っていいだろう。

3.情報過多に対する基本戦略

 ここまで、情報過多について整理したが、決して現象と根拠が網羅されているわけでもなく、またこの分類、整理が十分なものでもないとは言えると思う。それを前提に、情報過多に対する策について考えることにする。

 まず総論的には、「過多」状態に対して、①情報の量的な減少が基本的な戦略となる。例えば公文書や公式アナウンスなど、特定のWebで公開されている情報が大規模な文書の場合、手段としては、①-1ダイジェスト化(要約)、①-2インデックス付け、①-3頻出語と共起の抽出、などが考えられる。

 ①-1「ダイジェスト化」としては、以下のリンクで示すように、AIなどを採用したいくつかのサービスが開始しているようである。

 前者は原文を生かしたもので、後者は文章自体をメタ的な観点から評価、解説するようなスタイルである。どちらも完成度は高いが、余りポピュラーにはなっていない。
 ①-2「インデックス付け」は、文書を構造の面から解釈するもので、人間の思考と親和性は高い。感情吐露などを除けば、殆ど全ての文書は、何らかの構造を持っており、「インデックス付け」は、その構造自体を抜き出すことで、文書の全体構造を明らかにするものである。Web文書は、HTMLにより記述していくが、その元となっているSGML自体、文書の構造情報を記述するものであった。そのためWeb文書でもタグ情報の抽出によってその構造を明らかにして、インデックス付けを行うことは可能である。
 例えば「<H」タグに着目することで、大まかな構成が明らかになる。さらに「<B」など強調に着目することも可能であろう。これらを①-3「頻出語と共起」と組み合わせることで、コンテンツを解析せずに、ダイジェスト情報の端緒を得ることも可能であろう。
 ①-3「頻出語と共起」は、テキストマイニングの一種で、アプリケーションの一つであるKHコーダーによって、処理が容易になってきた。文章を語彙にわけ、頻出語彙と共起する語彙を明らかにすることで、何らかの情報の纏まりを可視化することができる。これも、コンテンツの情報量を減らすという意味で有効な手段であろう。 

 こうした基本戦略を元に、様々な情報過多に対する策として、ここでは以下のような戦略を考えてみる。

・情報源の集約(分散情報主体の場合)
・発生源への接近(メタ情報の付加・スクリーニング)
・ノイズの削除(
主観情報の峻別、削除)
・メディアの統合(単一メディア化)

 情報過多の原因として、例として分散した多くの情報発信主体が存在する場合を想定すると、その主体の絶対数を減らしていく必要があるだろう。発生源の評価を行い、スクリーニングをすることで対応することも可能ではあるが、それぞれの情報源に価値がある場合、情報源を集約してより少ない情報源にして行く戦術が考えられる。
 例えばその典型例が、自治体の情報発信、PRである。筆者の関心事でもあるが、日本の過疎自治体は650あり、さらに自治体そのものは、1728存在している。それらの全てを、ユーザ側が自ら身に行くという行動はまず考えられないだろう。そのため、それらを集約するサービスが必要になる。
 元々情報爆発の立役者でもあった、2ちゃんねるなどの匿名掲示板が社会的にインパクトを持つようになって、「まとめサイト」という考え方が登場してきた。これも多くの発信主体による情報過多に対する機能を持ったものと言えるであろう。現在、かつての2チャンネル並みに情報発信のインパクトを持ったサービスが、Twitterだろうが、同サービスには早い段階からまとめサイト的な機能を持ったサービスが提供されていた。Togetterを筆頭に数多くのサービスがあるのは、情報過多をもたらすこと自体が、Twitterの一つの重要な機能であるからと言っていいだろう。

 近年では、人々に対する重要なメディアの一つがYoutubeであるのは間違いがないが、そのまとめサイトに該当するものが、以下の「you-choose」である。2020年3月オープンだが、まだ余り知られてはいないようである。

 このようなリンク集やまとめサイトなど、過剰な情報を処理し適正な情報に洗練し、集約していくサービス「インテンシブWebサービス」と総称する。リンク集、ダイジェスト、まとめ、Wikiなどを統合した機能を持ったものである。匿名掲示板のみならず、TwitterなどのSNSに関しても、まとめサイトが多く立ち上がっているのは、その有効性を示していると言っていいだろう。
 同様に、多くのメディアに渡って情報が発信されている場合、メディアの統合によって、単一メディア化する方法も考え得るだろう。考えてみると、テレビが多チャンネル時代を迎え、多くの番組が提供されたにも関わらず、人々に情報過多を余り意識させなかったのは、偏に新聞のテレビ欄の力だったように思われる。各チャンネルの番組を時系列で整理し、簡単な概要と共に一覧で提供するテレビ欄は、メディアを超えたテレビのまとめ、インテンシブサービスでもあったということであろう。

 情報の質的な問題や、ノイズの増大に関しては、これが全てではないだろうし、多くの形態があると思われるので、概略だけ述べておくことにする。まず、情報の発生源に接近する戦略があり得るだろう。多くのSNSで、発信者の公式認定を行うなど、情報源が重視されている。このように、特定の情報にメタ情報を付加することによって、情報のスクリーニングを行うことは可能であろう。但し、情報源や情報そのものに関するメタ情報、説明情報も情報の一種であり、これらメタ情報のインデックス付けや集約が必要となる。
 さらに現状では、ネット上の多くの「ノイズ」には、主観情報が多く含まれている。それこそTwitter上では、RT(リツィート)は、賛同を意味するといった捉え方も多いようであるが、特定の情報に対して、多くの情報源を持たない人間が、賛同する、あるいは否定するという情報自体、主観性の強いものである。ここで言う主観というのは、感情、感覚という意味ではなく、情報発信者の内的な表出ということを指している。多くのRTがあるということが賛同者が多いという意味だとするならば、それは特定の情報に対する説明情報、すなわちメタ情報であって、元となる情報、元ツィート、すなわちオブジェクト情報だけが本来の情報でしかないのである。実は情報爆発の実態は、こうした主観情報、メタ情報の増大という側面も強くある。それが情報の解釈の多様性や情報の変質、変形などを引き起こしていると言ってもいいだろう。
 かつてWebページが急激に増大していった際に、Yahoo!を代表とするディレクトリサービスが、Webサイト自体を審査してスクリーニングをして行くサービスを提供したが、情報のシステマティックなスクリーニングや峻別なども今後大いに必要とされて行くと考えている。

 一連の情報爆発に関する研究プロジェクトは情報が大量にあふれている実態を明らかにして行った。
明らかに情報は過多である。
 こう述べた場合、おそらく誰に対して、どの位過多なのか、こうした疑問も出て来るだろう。しかし筆者は、それを客観化する必要は無いと考えている。何故ならば、ある人にとって情報過多だと感じるなら、やはりそれは問題とすべき過多の状態なのである。おそらく受け手の様々な条件によっても、過多の状況や形態は異なるだろう。いくつかの手段だけで解決できるようなものではないし、様々な戦略、戦術があるはずである。情報過多は始まったばかりであるし、また継続し続けているのである。小さな領域を注意深く分析し、情報過多を解決していくしか無いだろう。

尚、トップ画像は piqsels から借用している。

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