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慰霊、追悼、供養(#33 ニュース映画で現代社会を勉強しましょう)

市民生活・慰霊、追悼、供養

人々の生活に関わる物事として、旧来から重要な習俗として行われている儀式やしきたりの中に、慰霊、追悼、供養など、死者に纏わるものがあります。それらは死者に対する儀礼を示す言葉ですが、慰霊と追悼とはその意味内容が異なります。

追悼は通常死と異常死の両者ともに該当しますが、慰霊は主に、事故死や戦闘死など異常死の場合に行われます。追悼の場合は、追想を通してその死が哀悼されるのに対して、慰霊は事故死と戦闘死とで大きく異なります。
前者の場合、霊魂の安息と悲劇を繰り返さないことへの祈願が中心ですが、戦死者の場合、死者が神として祭祀の対象となることがあるという点が異なります。「民俗学からみる慰霊と追悼」(新谷尚紀)

こうした古来の習俗は、民俗学的な考察の対象ですが、戦後に、川崎のような都市部に暮らした人々は、周囲の何を敬い、感謝していたのか、政策ニュース映画には、大変興味深い記録が残っています。
特に川崎は、太平洋戦争で大空襲を受け、多くの死傷者が出ましたが、昭和2,30年代ではまだそれらの記憶が強く残っていたはずで、様々な追悼などの様子が記録されています。

慰霊という儀式が最初に記録されているのは、昭和27(1952)年11月の「野良犬をなくそう」です。

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昭和27年11月20日 野良犬をなくそう

当時、川崎では野犬が多く被害も多かったようで、「全国一の狂犬発生の町となった川崎市」とナレーションが入ります。
同時期に発行された、やはり川崎市の広報誌「市政だより」には、しばしば野犬の話題が取り上げられます。
戦時中は軍用犬として徴用されたり、都市部では飼えなくなって捨てたり殺したりしたことが多かったことを考えると、複雑なものがあります。
野犬の慰霊祭で経文が読まれる様子が取り上げられていますが、今の眼では余り見たくない内容です。

戦没者の慰霊祭が記録されているのは、昭和29(1954)年12月の「第三回戦没者合同慰霊祭」です。「戦争物故者の合同慰霊祭」の様子ですが、僧侶と神職が並んでいます。

追悼

昭和29年12月15日 第三回戦没者合同慰霊祭

川崎の市政ニュース映画は、本質的にローカルニュースの媒体であって、太平洋戦争のような国家レベル、あるいは広域自治体レベルのできごとに関しては、意外にも余り取り上げられていません。
太平洋戦争の追悼に関しては、この後昭和36(1961)年8月「夢見ヶ崎公園に展望台」で、「高さ17メートルの戦没者慰霊塔」が取り上げられる程度です。また戦災に関しては、昭和20年代に川崎大師の再建と消防署の望楼の様子が取り上げられているだけです。

慰霊

昭和30年12月20日 計量まつり

昭和30(1955)年12月20日の「計量まつり」では、稲毛神社の境内で行なわれた、「ものさし供養」が記録されています。
神職のもと儀式が執り行われ「使い古しや壊れたものがたくさん集められて、火にくべられました。」とあります。文献などをあたってみたのですが、ものさし供養自体、今では全く例がありません。
おそらく、針供養、筆供養のように、日常で使っている道具に対する労いや感謝と、習い事の上達を願う行事でもあったのでしょう。供養したものさしの代わりに、新しいものさしが子供たちに配られていますが、文具メーカなどが支援していたのかもしれません。
都市部らしい如何にも戦後らしい行事ですが、根付かなかったようです。

昭和31年12月19日 消える大師のり

昭和31(1956)年12月19日の「消える大師のり」では、川崎で獲れていた大師海苔が埋め立て工事で消滅する瞬間の記録ですが、大変珍しい儀式である「のり供養」の様子が記録されています。

「豊作を祈る恒例の「のり供養」が最後を飾って盛大に行われました。海苔場では、豊作を祈願して経文が読まれ、続いて、人々の祈りを込めて卒塔婆が流されました。」

作物に対して、供養という儀式というのも興味深いですが、さらにそれが、経文を読み卒塔婆を流すという仏事としてなされているのは、貴重な記録です。

現在、海苔供養が行われているのは、浜名湖海苔の産地である現在の浜松市西区、旧舞阪町にある、宝珠院だけです。浜名湖の海苔供養は、海苔の養殖を伝えた開祖に対する供養を内容とするようで、昭和42(1967)年から始まったそうです。また供養の内容も、墓参りと、海苔や料理を供えることが中心で、川崎で行われていたものとは本質的に違っています。

経文を書いた卒塔婆を流すという儀式は、記録としても大変貴重なものと言えそうです。

「しかし、この冬は水温が高くて祈りの甲斐もなく、去年より一段と不作の模様で」とナレーションが続きますが、この水温の高さは、明らかに工場排水の影響でしょう。
この回は、この時点で100年近く続いた海苔漁の終焉を取り上げたもので、海苔供養は、大師海苔という存在や産業自体の供養にも見えます。この大師海苔にまつわる文化や儀式などは、川崎独自のものとして大変興味深いものがあります。

昭和39年12月22日 交通事故の追放を

昭和39(1964)年12月には、「交通事故の追放を」で、新たな供養が取り上げられます。

「ますます増える一方の交通量に伴って、交通事故の発生件数が増加しています。神奈川県下では、統計によると、交通事故で毎日2人の人が尊い命を失っており、さらに増えることが心配されています。」

この時代には、「交通戦争」という言葉があったように、交通事故による犠牲者が非常に多くいました。
これは川崎大師平間寺での供養の様子ですが、市長や制服に腕章を付けた警察関係者の他は、現在の仏式供養と変わるところはなさそうです。

交通事故の慰霊祭は、この後、
昭和40(1965)年12月 「起こすまい交通事故」
昭和41(1966)年11月 「この悲しみをなくそう」
の2回、題材になっています。
どちらも川崎大師平間寺での合同慰霊祭の模様です。

交通

併せて、当時の交通事情が映りますが、確かに事故が起こりそうなシーンが続きます。今の眼で見ると、子供や老人などの歩行者が、増加していく自動車に明らかに対応できていないようにも見えます。
交通問題は、慰霊祭以外にも安全教室や大会などの啓蒙活動が取り上げられていますが、社会課題の項で取り上げます。

交通2


昭和40年11月23日 初の労働災害慰霊祭

昭和40(1965)年11月「初の労働災害慰霊祭」では、労働災害の慰霊祭が取り上げられます。
「これは昭和22年から昨年末まで、市内で作業中の事故などで亡くなられた方々827柱の御霊を祀るものです。」とありますが、工業都市らしい慰霊祭で、やはり僧侶と神職が映っています。

労働災害

川崎では、労働災害に関しては「労働災害防止研究集会」などが開かれていますが、合同慰霊祭といった形では、既に開かれていないようです。
合同慰霊祭としては、現在では戦没者の他に、震災などの大きな出来事と、大きな病院等の施設で行われることなどが主で、交通事故や労働災害自体は、社会課題ではなくなってきたと解釈できるかもしれません。

農村などで旧来から行われてきた先祖の供養など、前近代からのものは、昭和2,30年代には全く取り上げられません。
高度成長も終焉を迎えた後の昭和51(1976)年8月「ふるさと散歩」に、初めて北部多摩区の盆行事が取り上げられます。ただし、実際の行事ではなく川崎市の日本民家園という野外博物館での様子です。

昭和51年8月24日 ふるさと散歩

「民家園の旧北村家に今年もまた盆棚が飾られました。先祖の供養をするためのこの盆棚は、多摩区の細山地域に今でも飾られているものです。ここを訪れる人々にふるさとを忍ばせています。」

川崎の南部で行われてきた慰霊祭などは、時期的には盆時期ですが、戦災などの出来事に纏わるものが主であり、先祖代々といったニュアンスは持っていません。
やはり川崎は、流入者が中心の地域であるがゆえに、新たな習俗を作り上げていく必要があったということでしょう。

供養に纏わる史跡に関しては、昭和53(1978)9月「岡上をゆく」で、川崎市多摩区岡上にある「古い歴史を物語る史料や文化財」として、

「武士の供養塔、室町時代の板碑。東光院には平安時代の仏像があって、岡上の歴史を無言のうちに語りかけてきます。」

と紹介されます。

昭和53年09月15日 岡上をゆく

高度成長期までは、川崎北部は都市化とは若干離れた農村地帯という位置づけだったようで、北部のニュース自体余りありません。
人々の関心が、南部の都市化、工業化にあったのが昭和2,30年代であり、40年代以降、その影響としての交通戦争や公害、労働災害などにフォーカスがあたり、それらが落ち着いて、やっと先祖からの習俗としての供養にまつわる行事にも目が向いてきたということでしょうか。

平成2(1990)年4月の「春まっさかり 宮前植木の里」では、北部宮前区長善の境内にある「植木供養塔」が取り上げられます。
当地は植木業者が多く、全国で唯一この植木供養塔があるとのことですが、植物の供養と言う意味では、海苔供養に通じるものを感じます。

平成2年04月15日 春まっさかり 宮前植木の里

人ではないもの、植物に対する供養という意味で、海苔供養、植木供養という習俗は、貴重なものでしょう。

戦後から始まる一連の政策ニュース映画を観ると、川崎で海苔の養殖がおこなわれ始めた明治時代、工業地帯が成立する以前にその地にあった自然観、あるいは死生観のようなものが、戦争を経た昭和2,30年代に変化したり消えたりして行ったように思えます。

※茨城県大洗磯前神社
撮影 舟橋 謙一


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