有機農業の里と廃校のカフェレストラン・分校カフェ「mozart-モザート」 有賀香織さん(地方創生の現場シリーズ)
0.ティーザー版
1. インタビューの背景
もともと地方の過疎と都市の過密を生み出したのは、端的に言ってしまえば、戦後の高度成長期を経たこの国の産業構造の大きな変化にあると考えています。以下の図は、Wikipedia「日本の人口統計」からの引用で、終戦の五年後、昭和25(1950)年10月1日の第7回国勢調査での、日本全国の人口ピラミッドです。
この10年前、昭和15(1935)年時点の人口ピラミッドは以下です。
戦前、戦後で比較するとよくわかるのですが、戦後、昭和25年の時点で大きくえぐられるように減少しているのは、当時20代後半から40代までの男性だということに気づきます。その世代は、日中戦争、太平洋戦争期に徴兵された年齢層であり、時代的には大正時代に生まれた世代になります。
この世代の悲劇に関しては、以下に詳しく述べられています。
同記事から、昭和20年の時点での、5歳階級別に一まとまりにした人口ピラミッドも示しますが、この徴兵された年齢層がいかに大きな数だったかが、よくわかります。
このように、特定の世代の減少は、国の産業、経済などに大きなダメージを与えます。今の少子化の議論も、まさにその点にあるでしょう。ある特定の世代がごっそり消えてしまうという点では、当時も危機的な状況にはあったわけです。
しかし当時は、いわゆる団塊の世代と呼ばれる戦後のベビーブーマー達を中心にした、多くの若い世代が存在していました。昭和25(1950)年のグラフの最も下の段にある人たちです。この世代の人たちが、戦後高度成長期に入って日本の産業構造が変わると共に、安価な若年労働者層として、さらに消費者として、日本の経済成長を下支えして行きます。これを人口ボーナスと呼びます。端的に言えば、この安い労働力が、この国の戦後の豊かさを生み出したと言っても過言ではありません。このベビーブーマーの存在が、戦争の影響を見えなくしてしまったとも言えるかもしれません。
以下には、「平成29年版 少子化社会対策白書」、戦後の出生数の推移を示すグラフを示します。
このグラフで見るとはっきりわかりますが、昭和22年から24年まで、とにかくたくさんの子供たちが生まれました。こうした多くの母数を持った世代が、社会に与えた影響はとにかく様々な側面に及びますが、その中でも学校教育は大きなものと指摘できるでしょう。
戦後、新憲法のもとで様々な社会改革が行われて行きましたが、その中でも特に地方自治制度は大きなものでした。基礎自治体である市町村の事業範囲として、市町村消防、自治体警察の創設、社会福祉、保健衛生、そして新制中学の設置などが定められ、市町村規模の適正化が必要とされます。それが、通称「昭和の大合併」と呼ばれる市町村の廃置分合で、以下にその経緯は詳しく示されています。
その根拠となる町村合併促進法(昭和28年施行)第3条では、基礎自治体の規模を、「おおむね8,000人以上の住民を有することが標準」としていますが、これは新制中学校1校を管理するのに必要な規模とされています。
つまり市町村と新制中学とは、元々対になって設置されたものと言っていいわけです。
戦後のベビーブーマー達がまだ子供だった頃、昭和3,40年代には、とにかく各地に多くの小学校、中学校がありました。
上の図は、ニッポンドットコムから小中学校の生徒数です。明らかに団塊の世代の成長に併せて、生徒数のピークが移って行きます。さらに以下が学校数の推移です。
教育システムや設備としての学校は、その社会の在り方を端的に示すものであり、戦後社会を考えるにおいては重要な着目点となります。全国に渡って、多くの子供たちを教育するために作られて行った学校設備自体が、少子化の到来によって、遊休施設化し廃校になって行くという流れは、過疎の実態を見れば当然のことと言えるでしょう。
町おこし関係では、地域の「祭事」に注目して地域を見直すということは、しばしば行われています。確かに祭事は継続性が必要であり、地域の結びつきや活性化を考えるには、重要な手掛かりかも知れません。しかしこと戦後における大規模な人口移動が、現在の過疎、過密問題を生み出していると考えると、「学校」という設備の存在も、地域を理解していくために必要な観点であることは間違いないでしょう。
整理しながらまとめたので長くなってしまいましたが、地方における様々な活動を考える時に、「廃校」がどう扱われているのか、その点に関心がありました。自治体の合併も中学が基準になっているということから、概ね学校自体がその地域の中心的な位置に存在していることが多々あります。しかし地域に多くの子供がいなくなり、学校が機能停止している状況で、それなりの規模を持った設備である学校は、個々の自治体、地域にとって利用のし甲斐がある資源だと言えるでしょう。
こうした点から、埼玉県小川町にある廃校を利用したカフェを営んでおられる方にお話しを伺いました。なぜその地域でありどういうカフェなのか、その点を中心に伺いました。
2. 地域の特性とカフェの特長
お話を伺ったのは、埼玉県小川町の、「分校カフェMozat」を営んでおられる有賀香織さんです。お借りした写真が以下になりますが、もう見るからに地方の学校の風情です。元々、小川町立小川小学校下里分校だった建物で、小川町のWebでは「明治7年に開校後、昭和39年に現在の校舎を新築しましたが、児童数の減少に伴い、平成23年3月に廃校」と説明されています。昭和39年の建設なので、確かに昭和の風情がある懐かしい感じの建物です。何より、作り物ではない本物が醸し出す雰囲気は、いろいろな記憶を喚起します。筆者は昭和30年代生まれですが、小学校は木造校舎で習いましたし、確かに用務員室での記憶もあります。しかし当時は、出来たばかりの鉄筋コンクリート造りの新校舎の方に関心があって、木造校舎は古くて余り好きではありませんでしたが。
お話を伺った有賀香織さんは、「グラフィックデザイナーの傍らケータリング事業を開始。ここ数年は、食育・農育活動にも力を入れ、世界で有数のオーガニックタウン埼玉県小川町で、持続可能な循環型農業を実践する農家さんと協働で 『畑のがっこう』を始める。」と紹介されています。
有賀さんはインタビュー中で、小川町の農業との関りを持った切っ掛けを「子供たちが畑を見たことが無いので」と仰っていましたが、確かに最近では、首都圏での畑作も見ることは殆ど無くなりました。またその辺りは不勉強で全く知りませんでしたが、埼玉県小川町、特に下里地区は、有機野菜栽培が盛んな場所として知られているそうです。
例えば周りが農薬を使う農家だと、そこから逃れてくる害虫が無農薬野菜にたかって来るといったこともあり、収穫地全域が有機農法である必要があるようです。そういった事情で、有賀さんは小川町下里地区に出入りしていたそうですが、コロナ禍を期に、移住をしてこの分校カフェを任されることになったとのことでした。
有賀さんインタビュー本編
下里分校の用務員室を改築し、小川町の地域資源に重点を置いたカフェとして、2020年6月に開店しています。当初は、木造校舎を懐かしがる4,50代のご夫婦が主なお客さんだったそうですが、今は若い人も含め幅広い年齢層の利用客が増えてきているそうです。それこそコワーキングスペースとして使う方や、中学生が宿題をやるなど、多彩な利用者が来ているそうです。なんと、廃校マニアの方も来られるそうです。
単なるカフェではなく、移住者のための情報センターとしての機能も持っているとのことで、地域のコミュニティの仕組みづくりなども大きな関心事項だとのことでした。
今後の計画としては、有機野菜のレシピ本の計画、さらに地域資源を活用した商品企画などを考えているとのことで、単なるカフェレストランに留まらない存在感を持っているといった印象でした。
廃校の活用と言えば、アトリエ、コワーキング、インキュベーターなど、アートやテクノロジーとの関りなどの試みをしばしば耳にします。その意味では、カフェ、レストランなどへの転用は王道であり、他にも多く例はあるようなのですが、何より「Mozart」は、有機栽培の里という下里地区の持つ特質と結びついており、お店のブランディングとしても巧みさを感じました。また食関係に強い有賀さん自身も、お店のブランドに大きく寄与しています。ご本人の移住の切っ掛けは、このコロナ禍が大きな役割を果たしており、アフターコロナに向けた展開は、貴重な先行事例になるように感じました。