理科教育学における主要な論点に ”研究方法論” が仲間入りできそうな件について

「この星,とてもりっぱですね。海はあるんですか」
「それは知りようがない」と地理学者。
「へぇ!(王子さまはがっかりした)じゃ,山は?」
「それも知りようがない」と地理学者。
「じゃあ,町や河や砂漠は?」
「どれもこれも知りようがない」と地理学者。
「でも,地理学者なんでしょう!」
「いかにも,だが,探検家ではない。わしには探検家が徹底的に不足しておるのだ。町や河,山,海,大洋,砂漠を現地で確認するのは地理学者ではない。地理学者は大切な仕事をしておるから,気軽に出歩くわけにはいかない。書斎を離れられないのだ。(略)」
サン=テグジュペリ『星の王子様』,田久保麻理・加藤かおり(訳)pp. 129-130.

 上記は『星の王子様』の一節である。この物語で王子さまは自分が住んでいた星を離れ,自分にできることを探したり,見聞を広めたりするために様々な星を転々とする。この一節は王子さまが6番目の星を訪れたときに出会った老先生(地理学者)との会話である。

 なぜこの記事を『星の王子様』の引用から始めたのか。理由は2つある。
 1つ目は,先日Kohei ARAYAさん(静岡大学院生)による「理科教育学研究の方法についての一考察」という記事に触発されたためである。その指摘は示唆に富むものであると同時に,筆致が大変お洒落であった。残念なことに,本稿の筆者にはお洒落な文章を書く能力が欠けている。そのため,ARAYAさんの筆致を真似することで原稿のお洒落度を上げようと企んだのだ。少しはお洒落になっただろうか。
 2つ目は,この地理学者の振る舞いから,理科教育学研究者と理科教師の分業について考えてみようと思ったからだ。これについては本稿の最後でもう一度触れることにしたい。

 前置きが長くなったが,以下では本稿の主題である理科教育学における ”研究方法論” の問題について考えてみることにする。
 はじめに申し上げるが,現在の時刻(2019年12月10日22:04)の段階では,本稿を厳密で堅苦しい学術論文にするつもりはない(もっとも,冒頭の一件でお気づきの方もいると思うが)。一人の若手研究者によるちょっとした話題提供くらいのつもりでご高覧いただければ幸いである。


非常に大まかな問題提起の経緯

 理科教育学における方法論は,筆者が大学院生のころから頭の片隅で考えてきた問題であった。
 筆者が理科教育学を専門としたのは大学院に入ってからであり,学部時代は教育心理学を専攻していた。また大学院入学後から現在に至るまで,心理学に基づいた理科教育学研究をおこなってきた。

 理科教育学と比較すると,心理学は方法論にうるさい学問だといえるだろう。大学図書館の書棚から「心理学研究法」,「心理学実験法」,「心理統計法」と名のついた本を何冊見つけることができるだろう。反対に「理科教育(学)研究法」などという名のついた本は何冊見つけることができるだろう。

 ”心” という直接観察できない対象の性質を検討する学問であるからこそ,方法論が学問の成立基盤として極めて重要だと考えられているのだろう。心理学領域では方法論について議論する土壌が整っていたがゆえに,きっかけ (e.g., Bem, 2011; Open Science Collaboration, 2015) が与えられてから比較的迅速に,”再現(可能)性” の視点から方法論が顧みられ始めたのだろう(e.g., 『心理学評論』第59巻,第1号)。そして実際に具体的行動を起こせたのだろう (e.g., 加藤,2018)。

 ARAYAさんの論考でも紹介されているように,現在の理科教育学には経験科学的な研究,すなわち,何らかの量的指標を取得し,統計学的な分析を通して結論を下すようなタイプの研究が多く,こうした研究ではしばしば心理学の研究方法論が採用されている(大髙,2017)。

 これだけ大まかな説明だけでも,本稿で取り扱う理科教育学の ”研究方法論” に巣食うているかもしれぬ病魔の存在が示唆されるだろう。
 理科教育学ではしばしば心理学の研究手法が採用されており,また心理学の方法論が ”再現性” などの問題を引き起こしているのであれば,理科教育学もまた ”再現性” の問題を抱えている可能性が高いと考えられる。そうであるならば,今一度 ”方法論” を再検討する必要があると考えられる。

シンポジウム「理科教育学における研究方法論の再検討」

 2019年11月9日,日本体育大学にて上記のタイトルでシンポジウムを開催した。あえて能動態で書いたのには理由がある。筆者も企画者の一人であったためだ(主に動いてくださったのは日体大のUNZAI先生であり,筆者はおまけであるが)。
 このシンポジウムでは筆者を含めた理科教育学研究者と理科教師から話題提供をした。詳細はシンポジウムの企画ページに記してあるので,興味のある読者はそちらを参照してほしい。

 このシンポジウムは「理科教育学における研究方法論を再考し,エビデンスや再現可能性の視点から国内の理科教育学領域,ひいてはより一般的な教科教育学領域に新たな論点を提供すること」を目的としていた。

 そのため,ARAYAさんが本シンポジウムに影響され,良記事を書いてくださったことは,本シンポジウムの目的が少なくとも部分的には達成されたことを意味する。このことを筆者は大変嬉しく思う。

本稿でほんの少しだけ考えてみたいこと

 本シンポジウムを受けて”方法論”について考察を深めて下さったのだから,筆者はシンポジストの一人として,せっかく生まれた論点の萌芽にできるだけ迅速に応答したいと思った。以下にはARAYAさんの問題提起を踏まえて,本稿で改めて考えてみたいことを示す。
 「理科教育学研究の方法についての一考察」では,展開された2つの論点についてそれぞれ2つずつ,合わせて4点の提案がなされている(と筆者は読み取った)。本稿ではこれらの論点に対して応答する形で(ほんの少しだけ)議論を深めてみたい。

 ARAYAさんが提起した2つの論点と4つの提案事項について,大雑把にまとめると以下のように整理できる。

論点① 理科教育学研究のアプローチの多様性
・今後は多様なアプローチに基づく研究を可能にする方策を検討すること
・量的研究では,その「価値的な前提」を自覚して,議論を進めていくこと
論点② 理科教師の視点を尊重した議論の必要性
・誰が理科教育学の研究方法について議論していく(べき)かを議論すること
・今後,方法論について議論していくときにも,理科教師の視点を重視すること

 以下では,2つの論点について考えていくことにするが,まず筆者の立場を明確にしておく。ARAYAさんの提案に対して,基本的にすべて賛成の立場である。その上でほんの少しだけ考察を進めてみたいと思う。

論点① 理科教育学研究のアプローチの多様性

 筆者はとりわけ経験科学的・実証的・心理学的な研究方法を頻繁に使用するが,理科教育学の方法論は多様であるべきであると考えている。その理由は,理科に限らず教科教育学では
規範的・原理的研究(立場:思想家”的”)
開発的・実践的研究(立場:技術者・デザイナー”的”)
実証的・経験的研究(立場:科学者”的”)
 ※括弧内の”的”は筆者が追記した。
の3類型のリサーチクエスチョンが等価値に存在し(草原,2015; 佐藤,2017),これらが機能していることが重要であるからである。

 ARAYAさんの記事には以下のように記述されていた。

理科教育学では,多様なアプローチにもとづく研究が求められているにもかかわらず,実証的,あるいは,実践的アプローチにもとづく研究が多数派を占めている。
もちろん,すべてのアプローチにもとづく研究が量的に等しく行われる必要はないが,特定のアプローチが採用されず,特定の理科教育事象が解明されないことは避けられるべきであろう。

 これに関しては全面的に同意する。特に,社会科学の一領域である理科教育学において,現状少数派となっている ”規範的・原理的研究” の重要性は高い。なぜなら,こうした哲学的論考によって生み出された”価値” は他類型の研究を支える基盤,あるいは学習指導要領の基盤にもなり得るためである。

 筆者が主に採用する方法論である”実証的・経験的研究”では,論文の冒頭,すなわち問題の所在 (Introduction) において以下のように記述するのが典型例である(もちろん極めて乱暴で,かつ大雑把なまとめである)。

 学習指導要領(文部科学省,2017)では〇〇を育成することが求められている。<学習指導要領の紹介>
 しかし,全国学力・学習状況調査の結果,我が国の理科の ○○ は ×× であるという結果が示された。<ネガティブな客観的データの提示
 そのため,〇〇に関係する諸要因を検討することが重要である。<重要性の根拠が学習指導要領

 もちろんこの書き方が悪いと言っているのではないし,筆者もこのスタイルで論文を書いたことがある。しかし理科教育学という学問の方法論を考えるためには一考する余地があると考えられる。
 すなわち,この例では「なぜ〇〇が重要なのか」という問題の根拠は「学習指導要領に書いてあるから」なのである。あえて書きかえるなら「(時の)御上がおっしゃるから」なのである。これは ”価値” の所在についての思考停止であるとも捉えられる。

 現在の学習指導要領が作成される過程の中では相当な議論がおこなわれている。そのため「学習指導要領に書いてあるから〇〇が大事」という前提で研究を始めても,現状では哲学的な”価値”とはそれほど大きくズレないと思われる。論文の紙面も限られていることから,学習指導要領が 哲学的な”価値” をよく反映しているなら,このような記法はショートカットとしてアリだと思う。
 また,理科教育学という学問ではなく,理科教師による授業づくりであれば,これでも問題はないだろう。なぜなら学習指導要領には法的拘束力があり(e.g., 伝習館高校事件の判例,平成2年1月18日最高裁),理科教師はこれに基づいて授業をおこない,評価をする必要があるためである。

 しかし,社会科学の学問としての理科教育学研究を今後一層発展させていこうとするとき,この点について考える必要があるのではないだろうか。
 理科教育学における”規範的・原理的研究” による研究成果がなければ,理科教育で育成すべきあらゆる ”資質・能力” の重要性の根拠は時の学習指導要領の記述内容,あるいは個々人の思想しかなくなるかもしれない。
 当然ながら,未来永劫,学習指導要領が示す教育目標や育成すべき”資質・能力” が人類普遍的な価値である基本的人権の考え方に基づいたものであり続ける保証はない。学習指導要領の作成プロセスが不変である保証もない。もし,これらの前提が崩されようとするとき,理科教育学に哲学的研究による成果がなければどうなるだろうか。

 それゆえに,「より望ましい理科とは何か。なぜそれは望ましいのか」を徹底的に考える”規範的・原理的研究” は理科教育学研究になくてはならない存在であると筆者は考える。そして,”開発的・実践的研究” や ”実証的・経験的研究” のリサーチクエスチョンに基づく量的研究をおこなうときであっても,こうした「価値的な前提」に拘束されていることや,”価値”を支える哲学的背景に対してはやはり自覚的であるべきだろう。


◆ 研究方法論の議論と多様性
 ここでもう一度,先に書いた方法論についての問題提起の経緯を再掲する。

理科教育学ではしばしば心理学の研究手法が採用されており,また心理学の方法論が ”再現性” などの問題を引き起こしているのであれば,理科教育学もまた ”再現性” の問題を抱えている可能性が高いと考えられる。そうであるならば,今一度 ”方法論” を再検討する必要があると考えられる。

 ここで当シンポジウムの企画者の一人としてお詫びをしなければならない。なぜなら,そもそも方法論の問題提起は,心理学的手法やそれと類似した手法を採用する量的な ”開発的・実践的研究” および ”実証的・経験的研究” を主眼に置いていたためだ。
 シンポジウムの趣旨を正確に反映させるためには,主に質的研究による ”規範的・原理的研究” をおこなっている研究者も含めた話題提供をおこなうか,または提言対象を狭めたタイトルにしておくべきであっただろう。ARAYAさんが問題提起してくれた点は,この齟齬から生じたものであったかもしれない。結果的には,こうして貴重な意見が得られたのだからとても良かったのだけれど。

 方法論をブラッシュアップさせていくことは研究の質の向上と密接に関わる問題である。そのため,筆者は ”規範的・原理的研究” や質的研究を方法論として採用する研究者や理科教師もまた方法論についての議論に参加してほしいと願っている。もちろん議論の対象は,研究手法(量的研究or質的研究)やリサーチクエスチョンの3類型を問わずである。
 残念ながら,現時点の筆者は質的研究による”規範的・原理的研究” の方法論について語れるような知見を持ち合わせていないし,現状うまくいっているといえるのか,その評価も満足にできない。そのため,自分でも少しずつ勉強していくのと同時に,ARAYAさんや専門とする先生方からの問題提起や現状解説を待ちたいと思う。

◆ 方法論の多様性を認めることと,何でもありということ
 
研究方法論の「多様性を認めること」の重要性を説くことが「何でもあり」であることを主張するものでないことは承知している。しかしその上でも,これから方法論を考える際,「何でもあり」というわけにはいかないことを前面に押し出して議論する必要があると考えている。
 なぜなら,現状では「このように研究を組み立てるといいよ」という指針がなく,研究方法論は「みんなちがって,みんないい」という状況だからである。こうした状況では,どのような研究であっても以下に示したような結果が導かれうる。

 「すべてが効果的だと考えられる」。これは教育現場の常套句の1つである。「平均以下」を自称する教師はほとんどおらず,保護者,政治家,学校管理職各々が,特定の指導方法や学校改革が効果的であるとする理由をもちあわせている。そして,指導や学習に対する根拠のない見解が,「すべて効果的」といった正当化をもたらすのである。
Hattie (2008), 山森光陽(訳)(2018)『教育の効果 メタ分析による学力に影響を与える要因の効果の可視化』p. 25

 このHattieの指摘は個々の研究の方法論に対する問題提起ではない。しかし,あらゆる研究方法が容認される状況では,現実とは異なる結果を生み出されてしまう点で共通する問題であるように思う。
 以下では筆者が頻繁におこなう量的な”実証的・経験的研究”で見られる例を取り上げ,方法論の問題について少し考えてみたい。

 心理学では,問題のある研究実践(Questionable Research Practices; QRPs)とはどのような研究方法論であるのかが整理されつつある。統計学,とりわけ帰無仮説検定の使用についても注意喚起されている。また,APA Publication Manual (American Psychological Association) や「日本心理学会 執筆・投稿の手引き」(日本心理学会)では効果量,信頼区間の記載についても明示的に求めている。

 一方で理科教育学はどうだろうか。統計学的分析に関しては,ようやく『理科教育学研究』や『科学教育研究』でも効果量や信頼区間 (ベイズ統計学流の確信区間)の表記が散見されるようになってきたが,それでもまだ一般的とは言えない。
 質問紙に関する問題として,例えば,信頼性・妥当性が検討されている既存の心理尺度を使用せずに,独自に項目を作成することが習慣化しているため,使用される項目が研究ごとにバラバラであり,測定されている構成概念が何であるかが不明であることが挙げられる。
 ある授業実践による教育効果を確かめるため,実践後に教師が質問紙調査を行い,例えば「興味が高まりましたか?」という質問に肯定的に答えた子どもの割合が高かったことをもって有効性を主張する研究も多い。この研究方法の問題点は,筆者がシンポジウムで発表した。真の教育効果よりもポジティブな結果に見えるようなバイアスが存在すると考えられるのである。

 こうした問題は学問分野として放置するわけにはいかないだろう。これから先,「このような方法では確かめたいことが確かめられる」や「このような方法では見たいものが見えない」といった方法論の知見を蓄積していくことが重要ではないだろうか。

論点② 理科教師の視点を尊重した議論の必要性

 ARAYAさんは論点②について以下のように述べている。

理科教育学の研究方法が議論されるとき,理科教育学者を中心に議論が進められ,ややもすれば,その議論の結果が理科教師独自の視点にもとづく研究を阻害する可能性をはらんでいる。
理科教師が日頃から培ってきた実践知や反省知を生かし,ボトムアップで研究方法について議論していくことが今後も必要なのではないだろうか。

 筆者も当然,理科教師の視点を尊重することには大賛成である。理科教育学は実践的 (practical) な学問分野であり,その本質は実践にあるからだ。
 しかし,せっかくの議論の機会であるので,あえて筆者は反対の立場から考えてみたいと思う。すなわち,理科教育学研究者が方法論に関する議論の中心を担うべきなのではないかという立場である。
 大事なことなので再度申し上げあるが,この立場からの考察はせっかくの議論の機会なので,あえて異なった立場から考えてみようとするものである。

◆ 理科教育学研究者は理科教師の下位互換か?
 教師は研究者とは違い日々生身の子どもと接している。そのため,研究者には得られない実践知が蓄積されることは疑いない。これは大変尊いものである。
 ではこうした実践知が得られない研究者は,教師の下位互換でしかないのだろうか? 筆者はそうは思わない。ここで,冒頭に紹介した『星の王子様』の一節より地理学者の言葉を再掲する。

「いかにも,だが,探検家ではない。わしには探検家が徹底的に不足しておるのだ。町や河,山,海,大洋,砂漠を現地で確認するのは地理学者ではない。地理学者は大切な仕事をしておるから,気軽に出歩くわけにはいかない。書斎を離れられないのだ。(略)」
サン=テグジュペリ『星の王子様』,田久保麻理・加藤かおり(訳)pp. 129-130.

 誰しもが思うように,この地理学者は愚かである。この地理学者は,探検家がいないにも拘らず自ら情報を集めに行こうとせず,その理由を自身の職務が「大切な仕事」であるからと説明している。プライドが高く探検家を下に見ている上に,自らの怠慢によって地理学者の本分である知識の集積という仕事もなし得ていない。

 しかし,この地理学者がいる星がとても大きくて,そして多くの探検家がいる場合ではどうだろう。多くの探検家は星のいたるところの情報を集めてくるが,それぞれの探検家が集めてくる情報は局所の情報である。そのため,それらをまとめて記録し,全体図を構成し,星全体の特徴を見出すような地理学者の仕事が必要になってくる。
 このとき,地理学者と探検家は ”星を理解する” という目標に対して,分業が成立しているといえるだろう。では,地理学者は探検家の下位互換だろうか?
 ある一人の探検家が到達したエリアについて,実際に訪れた探検家と記録するために話を聞いた地理学者では,どちらがよりそのエリアを理解しているだろうか。実際に大地を踏みしめ,土に触れ,風を感じた探検家の方が,話を聞いただけの地理学者より多くの情報を持っているといえるだろう。探検家の方がよく知っている事柄は存在しえる。
 しかし,探検家よりも地理学者の方がよく知っている事柄もまた存在しえる。星全体の特徴はその代表例だろう。また各地域の情報を比較することによって,星の成り立ちや歴史についての仮説が生成できるかもしれない。

 この条件下での探検家と地理学者の関係は,理科教師と理科教育学研究者の関係と同じではないが,似ているところもあるように思う。
 実際にその教師が受け持っているその学校,そのクラス,その子どもについてのことならば,研究者よりも教師の方が(平均的には)詳細に,深く,理解しているはずである。これは教師による "子ども理解" として説明できる。
 一方で,その研究者の専門についての一般的な事柄であれば,(平均的には)研究者に分があるように思う。先行研究を通して過去の実証的・経験的知見を集積している強みはここにある。
 つまり,理科教師と理科教育学研究者は異なる専門を持つ存在であり,両者は分業として捉えられ,それぞれに強みがあるといえるのではないだろうか。

◆ ”研究方法論” をより専門とするのは理科教師か?理科教育学研究者か?
 では,研究方法論を強みにしているのは理科教師と理科教育学研究者のどちらだろうか。理科教師の職務の本分は当然ながら "教育" である。対して,理科教育学研究者の本分は "研究" である。そのため研究方法論についてより明るくて然るべきなのは理科教育学研究者であるといえる。
 そうであるならば,むしろ研究者が方法論の議論をリードしていくべきであるともいえる。そして研究を志向する教師や研究者集団に対して,問題のある方法論からの転換を呼びかけ,同時に新たな方法論を啓蒙していくことが求められていると考えられる。
 こうした取り組みについて,筆者は「理科教師独自の視点にもとづく研究を阻害する」ものではないと考えている。例えば「効果検証が目的の時は,質問紙を事後の1時点でのみ実施するのではなく,pre-postで実施しましょう。質問紙はできるだけ無記名で実施しましょう。」と呼びかけることは,「理科教師独自の視点にもとづく研究を阻害する」ことになるだろうか?
 筆者は,こうした新たな方法論の啓蒙が「理科教師が日頃から培ってきた実践知や反省知」から生まれたリサーチクエスチョンに基づいた研究を,より確かな知見にするのを助けると信じている。

おわりに

 先のシンポジウムを契機として始まった研究方法論に関する議論は,引き続き絶やさないようにしていく必要がある。また理科教師,理科教育学研究者を問わず多くの人がこの議論に参加し,多様な視点から問題を明らかにしていくことが望ましいだろう。もし関心を持った方がいたら,ぜひ議論に参加してほしいと思う。
 以上,計画もなく思ったことから順番に書いてしまったため,大変読みづらい文章になってしまった。のんびり書いていたら,現在時刻は2019年12月11日6:39である。朝になってしまった。とりあえず一旦ここで公開し,後ほど細かな箇所を編集することにしたい。

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