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22/09/15 恥多き話

個人的に描いた展覧会のレポ、そこから繋がっていただいた美術館の仕事、などから、
すぐに見せられるものでもないのだけれど、好きな絵をうつした絵を描くことが、ひっそりと続いています。
模写、という言葉を使う勇気がなかなか出ません。模写、と言うと、サイズも画材もすべてそっくりにしたようなものが最終目標であり、それを目指していないことが後ろめたいような気がします。じゃあなんと呼べばいいのか。そういえば、南伸坊さんは何かの本で「ヘタ模写」と言って描いていて、絵もうまいうえにうまいことを言うものだなあと思いました。

そんな模写と言うのも憚られるような、小さくて手軽な絵なんだけれども、
描くたびに、こんなに勉強になるものはないと思ってしまう。
これを描き終えたら、次はきっと今までと違う手と目の使い方ができるだろうな、という予感がビシビシするのです。

もともと、模写が苦手で、恥ずかしいことにあんまりやってきませんでした。
手本のままに作るということに、うまく楽しさを見出せなかったのです。小学生の時分に習っていた習字に身が入りきらなかったのも、そういうことだろうと思います。あと、もっと小さい頃はぬりえが苦手でした。それは関係ないか。
習字だって、模写だって、今ではもっともっとやっておけばよかったのにと思います。
誰かの「好きな作家/漫画家の絵を模写しまくった」という話を聞くと、ああ私はなんでやってこなかったんだろう、これだから下手なのだ、と落ち込みます。模写コンプレックス。

過ぎた時間も、子ども時代の柔軟な感覚も吸収力も伸びしろももはや取り戻せませんが、
とりあえず模写はいまからでもできます。いやコンプレックスからやっているわけではないですけれども。

イラストレーターをやっていると、やっぱり作風ということを気にします。私も作風ということを気にして、一応イラストレーターの端くれにこぎつけました。
誰かの真似なんかいくら上手にできても仕方ないと、そういう価値観で生きるものです。
でも、好きな絵を、たとえば応挙の子犬とかを真似して描いていると、それを人に見せるとか見せないとかにかかわらず、
なんか自分の絵とか作風とかどうでもよくなってしまいます。
もうとにかく目の前の好きな絵があまりにも完璧で、最高なので、デカめの尊敬の念を抱かずにいられないわけで、もうまずはその前にひれ伏すしかないなと思うんですね。
正直自分の絵なんかどうでもいいから応挙の絵を見てほしいとか、思います。わりと。
描いてる時じゃなくても思います。わりと。
一応イラストレーターの端くれ、いいのかそれで。わかりません。わからないからこの文章を書いています。

ただ、これは当然力の差でもあるんですが、真似して描いても、目標の絵やほかの人の絵と全く同じにはなりません。
同じ鉛筆と同じ紙を使って描く真っ白な立方体のデッサンでさえ、そうであるように、やっぱりみんな違った絵になってしまいます。
かつて作風に悩んで、奇矯なことをしたりもしたものですが、結局作風やら個性やらいうものは、こういうところに宿ってるんだよなと思ったりします。
しかしそれが、他人のものは認識できるんですが、自分のものは非常に認識しづらい。だから、自分なんかどうでもよくなりながら真似して描いた絵に、宿っているかもしれない自分の作風を、自分では判断しきれないままです。
だったらもっと、自分の作風を認識できるくらいの塩梅で描きゃあいいじゃないかと思いますが、先述のようにどうでもよくなってしまうのであり。
いいのかそれで。わからないので、わからないけどそういう話をする場もないので、この文章を書いています。

一応プロなのにこんなことを言うのは、人目につくネットの海に流すのは、よくないのかもしれません。ちょっと不安です。もとい、だいぶ不安です。
初めて絵の仕事をした後、いつまでも不安でそわそわしているものだから、「あなたはもうプロなんだから」と恩師に釘を刺されたのを思い出します。
あれから何年、プロ意識は育つのでしょうか。なんだかいつまでも素人のようです。お恥ずかしい。
素人でいることは、よいこともありましょうが、悪いことも私はたくさん持ったままだと思うので、やっぱり恥ずかしいです。

打開策、まずひとつはちゃんと勉強と経験を積んで、プロを名乗れる程度の自負を持てる人間になることだと思うので、がんばります。こんな弱音をnoteに吐いても免罪符にはならぬことを、肝に銘じなければならない。決意表明で締め。

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という、決意表明で締めたんですけれども、書いていて思い出したことがあり、
すでに少し時間も経っていて、思い出した時に書かないと、いつまでも書かないし話さなそうなことなので、書いてみるんですが、かつてのお仕事の経過の話です。えっと、蕪村展の。
こういうの、喋らないで黙っといた方がかっこいいんだろうな。


2021年春、府中市美術館での与謝蕪村展の図録に、コラムを描かせていただいたとき、
絵をどう描くかでひとり二転三転し(はからずも123)、
結局使わなかった、筆と墨で描いた絵がのこっています。それが↑の写真。
(でも右下の絵だけ筆ペン使ってますね)

↑このときの制作ですね。

その前にチラシでも描かせていただいていて、それは原画は全部鉛筆で、デジタルで仕上げていたんですが、
まあ反省もあったりして、図録では絵の描き方をもっと良くしようと思い、一度は墨と筆で(線だけでも)全部描こうとしたんです。
でも、途中で予定を変更して、仕上げの原画は結局、鉛筆や筆ペンがメインになりました。(墨と筆で描いた↑の絵も、下書きに利用はしたので、完全に無駄にしたわけではないですが)

コラムで引用した絵の半分以上は、一度墨と筆で描いてみたと思うんですけど、それをどうして使わなかったのかというと、
なんか、描いてて「がんばりすぎててよくないな」と思ったんですね。
しかし、ではなぜ墨と筆で描くぞと、そもそも思ったのかというと、実物の作品を間近で拝見する機会をいただいて、めちゃくちゃ圧倒されて、
実物の絵のタッチはこんなに素晴らしく雄弁なのに、自分はこんな楽な画材でちまちま描いているだけじゃいけねえ、もっとがんばらねばと思ったからなんですが。
がんばらねばと思ったのにがんばりすぎててよくない絵になる、これだから絵というものは摩訶不思議なのである。
もしかしたらがんばりの方向を違えていたのかもしれません。

この蕪村展関係の仕事では、ノートに調べたことや資料の引用を書き留めたり、思考や心境などを日記的に書き記したりしていて、
がんばりすぎててよくないなと思ったことも、何か書き残していないだろうかとノートを見返したんですが、一言も見つかりませんでした。ぎりぎりで決めて、書く余裕がなかったのかもしれません。その前の、筆と墨で描く、と決意したくだりは確認できたんですけど。
なので、すでに多少の記憶違いが起こっているかもしれません。
まあ、基本的に一人ですったもんだしていたことなので、記憶違いで迷惑するのは過去の自分くらいだとは思いますが。
すったもんだもしましたけど、蕪村展の仕事でのことは、本当にすべてが思い出深くて、何かと話したくなってしまうもので、突然掘り返してすみません。やはりお恥ずかしい。

仕事にまつわる思考を書き留めておくのはけっこういいなと、ノートを見返していて思いました。またやろうかな。