記憶の壺vol.2 右肩上がり

嫌なことは一旦棚上げをして、目の前のことを楽しむ練習をする、と教わった。桜並木の下を歩いていたとき、心に嫌な記憶が溢れ、桜はきれいなのに何を考えてんだと思った時の話をしたときに。

菜々ちゃん、夢のある絵を描くねと言われていた。その時はそれが菜々ちゃんの心だったのだろう。その後、長いこと描けなくなった。そして焼き鳥やにひとりでフラッと入って店員のお姉さんと話した。まだ開店したばかりの時間で、お客は菜々ちゃん以外いなかった。そのお姉さんは漫画を描いていて、雑誌に掲載されていた、という。そして「描きたいものがないときは目の前のものを描けば良いんです」と言っていた。しかし、カルチャースクールで立方体をつまらない、と思ってしまった菜々ちゃん。コップも置時計も楽しくない。菜々ちゃんは心を描きたかった。ふわふわと溢れるイメージを描きたかった。そして気がついた。

菜々ちゃん、夢のある絵を描こうとしていたけれど、今は苦しいんだ。苦しみの絵を描けば良い。そして描いたのが「悲しみの春」心が荒れた絵を描いた。そして蓋が外れた。そうか、描けないときはテーマを変えれば良い。お題だったり、テーマだったりそれを考えることも創作のひとつ。“気づき” 。“今私はこう思ってるんだ”。心の鏡となるものは、菜々ちゃんには文章だったり絵だったり。

昔、菜々ちゃんが発散を求めていた頃は歌も心の鏡だった。菜々ちゃんの心が引き付けられた歌を、心を込めて歌っていた。 でも、菜々ちゃんはもう一曲歌いきる熱さがない。しかし。菜々ちゃんはやった。youtubeの近畿大学入学式オリラジ中田伝説のスピーチを見て感化されて昔のことを思い出した。

結果を出しにいかなきゃいけない。それは歌声をyoutubeにアップすることだけじゃない。「新宿南口で歌う」。歌を作ったとき、新宿南口で歌いたい、と思っていた。電車に揺られ1時間ほど。久しぶりの新宿南口はバスターミナルができていて、変わっていた。菜々ちゃんが歌おうと思っていた場所には「路上ライブ禁止」の看板。少し東口にずれて警察が来る前にオリジナルを歌って帰ってきた。人生のなかで“やりたい”と思ったことを気がつかないふりして年を取るなんてゴメンと思っていた子供の頃。足を止めて聞いてくれる人はいなかったけれど、やるにはやった。菜々ちゃん、過去の自分との約束叶えたね。それだけでも心が違った。鎖で繋がれていた過去の自分が羽ばたけなくとも、足枷が外れたような気がした。

菜々ちゃんの自分との約束は今は“tyouya”を描くこと。それは相棒に「もう1回描くんだよ」と気がつかせてもらったことだけれど。菜々ちゃんの言い訳の「絵を描くにはエネルギーがいる」。その言葉は誰かの言葉で、それをその通りだといつまでも覚えていたけれど、その言葉を棚上げして画用紙に向かうことも、目の前のことを楽しむ練習のひとつだよ。

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