見出し画像

10年前の自分に何を伝えるか?

 文章を書くときに、10年前の自分に向けて書くと良いという話を聞いたことがある。特定の読者を想定することで、メッセージをより明確にしていく技法の1つだ。

 なるほどと思い、自分の10年前から現在までを思い出してみたところ、随分と価値観や考え方が変わってきたことに気付く。その違いは180度違うと言っても差し支えないだろう。果たしてこんなに価値観の違う10年前の自分に対して、どうアドバイスしたらいいやら検討がつかなくなってきた。

 10年前の自分は、まだ会社に入ったばかりで、元気とやる気に溢れて、そこそこのパワハラにも耐えうる精神力を持っていて、とにかく会社の中で仕事をしっかりこなして、上司や先輩に気に入られ、上手くやっていこうという気持ちが強かった。

 そして、それこそが自分だけでなく全ての会社員がやるべきことだという使命感まで持って後輩にもそのような考え方を押し付けようとした。飲み会に出ないなんて、先輩をたてないなんて、ダメ社員だと。

 一方で、英語力は周囲に比べて劣っているという強い劣等感を持っていて、周りの同僚が海外出張や駐在にどんどん行き出した時は、1人取り残されたような感情を味わっていた。

 だが、自らも海外に行くことでそのような劣等感は払拭される。そして、上に気に入られようという頑張りにも、やがて疲れてきて、こんな努力は骨折り損のくたびれもうけに終わることが多いこともよく分かってきた。そもそも会社内の評価なんて上司の主観に大きく左右される。

 こうして徐々に会社や会社内の評価にしがみ付くことを手放していった。そして、私が完全に会社への期待を捨て去るきっかけとなったのが、コロナ禍で当時、私の勤めていた事務所のトップから何度もワクチン接種するように呼びかけられたことだ。

当時、事務所ではワクチンを忌避していた人は私を含め何人かいたが、最終的には私のみが未接種となっていた。昔から、私は頑固なところがあるので、自分の信念のためには孤軍奮闘頑張ることに決めた。

 そして、事務所を追い出すという脅しにもなんとか耐え抜いた結果、悟ったのだ。こんな会社には何も期待できない。会社では、仕事だからとか、仕事を円滑にする為にというマジカルワードで自らのプライベートの時間まで切り売りして上司の言う通りするような文化が横行している。だが、それはいい加減にしないと自分の精神的支柱や生命といった大事なものを犠牲にする奴隷に成り下がる恐れがあることを意味すると。

 と、ここまで振り返ると我ながら、10年間でよくもこれほどの価値観の大転換を行えたなと驚く一方で、過去の自分にはどう言って諭してやればいいか、一向に分からない。価値観が違いすぎる。

 しかし、更に突っ込んで考えると、そもそも「諭す」という発想自体がどうなのかという気がしてくる。過去の自分は間違っていて、現在の自分が正しいのかと?当時の自分はコレが正しいと思ってやっていたのだ。自分が正しいと思ってやっているのに、それを間違いだと言われて、こちらの正しいやり方を見習いなさいと言われても、全く納得できないだろう。

 過去の自分は過ちで、あの時間が無駄だったか?と言われるとそうは思わない。「気付く」には時間がかかるのだ。ある道を歩んでいて壁にぶつかった時、初めて人間は気付くことができる。現在の自分が、過去より正しいのではなく、過去の自分が気付いていなかったことに「気付いている」といえる。

 そして、人に気付いてもらうには、正論をふりかざしても全く効果はない。このことは、子育てをしていると痛感する。こんなところで遊んでいたら転んでしまうとか、あんなこと言ったら相手が怒り出すだろうとか、親としては子供の一挙手一投足についつい助言をしたくなるものだが、本人にとっては、それが初めての経験だし、やってみないとわからない部分が多々あるわけだ。

 それを「お前は間違っている。こうすべきだ。」と上から目線で阻止されようものなら、子どもは大きな声で抗議する。親としては親切心でも、これは子供の失敗する貴重な機会を奪ってるわけで、成長を邪魔していることになる。

 では、どうすればいいのか。それは助言するよりも見守ること。「答え」を言うのではなく、子供と一緒に「答え」に行きつくための「プロセス」をたどっていくことが大切なのだと思う。数学と同じだ。「答え」の数字ではなく、「答え」を導き出す「解法(プロセス)」にこそ、真価が問われるのだ。

 こう考えていくと、例えばコロナワクチンや政治に対する考えが家族内で異なっていても当然で、正しい、正しくない、の問題ではなく、単に気付いているか否かの問題であるに過ぎないことが分かる。気付いていない人は、まだ壁にぶつかってないだけであり、どちらが優れているという問題ではない。

 この場合も先ほどの子育ての例と同様で「気付いている」人が「気付いていない」人に自分の正論を押し付けても逆効果になるだけだ。「気付いている」側にできることは、「気付いていない」相手と一緒に気づきのプロセスを辿ることだけだ。本当に忍耐を必要とするプロセスである。
 
 まあ、自分も10年かかったのだからとその時自分が経てきたプロセスに再度、目を向けると忍耐強くなれる気がする。

 と、ここまで書いて、果たしてこの文章は10年前の自分に書いているのか、はたまた現在の自分に書いているのか気になった。文章としては、現在の自分でないと完全には理解できないものだが、10年前の自分もこの文章をを読んでなんとなく引っかかるポイントがあるはずだ。

 それでいいと思う。なんとなくの引っ掛かりが気付きを早めるかも知れない。いや、早めなくても同じプロセスを辿ってもいいのだが。。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?