note


仕事中はnoteに書きたいことがたくさん浮かぶのに家に帰ると忘れるの、人生のバグだと思うよ。



最近恐山さんのnoteをひたすら遡ることが趣味なのだが、「自分の思っていることを人に知らせるのは嬉しいことだ」という文があった。
自分も同じように思っていて、なおかつ多分恐山さんもそうなのではないかと予想していたので二重の意味で嬉しかった。

この感覚はそこそこの人が持っていると思うのだが、よく考えるとどういう欲求が根源にあるのかよく分からない。
別に誰かの同意を得たいわけではないので承認欲求とは違うものだ。

ネットで調べると恋愛系の記事ばっかり出てきた。そういう限定的なのではなくてね。もっと普遍的なね。

実は同意を得たいわけではないと思い込んでいるだけで、そこには薄らとした承認欲求や自己顕示欲が含まれているのだろうか。どこかで誰かに自分の考えを知った上で認めてほしいと思っているのか。否定はできないな。

問題は自分の場合マジで誰にも読まれない可能性があるのにそれを承知で書いているということなんだけど、ぽいっと投げておくだけで誰かの目に留まる可能性があるけど誰が読むのか分からない、読んでいるかもしれないし読んでないかもしれない、というふわふわした感じが割と好きだ。

ただアクセス状況を見る限り誰かしらには読まれているらしい。ただの日記とか誰が何のために読んでいるのか本当に謎。読んでくれた人ありがとうね。


そういえば昔は「同意を得られないこと」と「意見が間違っていること」が怖くて自分の意見を表明することがほとんどなかった。
「他人の同意を得ることが必ずしも正解ではなく、そもそも意見が間違っている=悪ではない」と理解し始めてからは考えを述べることが多少怖くなくなった。多少。他人が口頭反論できる場で意見を述べるのはまだちょっと怖いけど、一応言えるようにはなった。
noteはそういう意見に対する意見が(あくまで私に関しては)基本来ないところも気楽に考えを書ける原因のひとつだ。



「美大コンプレックス」というワードも見かけて「それな〜」と思った。多分ちょっと内容は違うけど、なんとなく美大に行った人にコンプレックスを感じている節がある。
それは微妙に道が違えば美大を目指す選択肢もなくはなかったと思うからで、目指したとしても実力がなくて落ちてた気もするからだ。

絵とか何かを作ることは昔から好きだったし「美大に行きたいかも」みたいな気持ちも一応心の隅にあったので、親とか先生の反対を押し切って死ぬほど頑張ればもしかしたら美大生になっていたかもしれない。
とはいえ入った大学はたぶんこれで正解だったな、という感覚もある。


セット+ナゲットが私のマクドルーティンだったのだけど、最近こいつが食べきれなくなってきた。食べきると胃もたれするようになってきた。歳だね。


永田さんのnoteをとりあえずフォローして無料分をちらっと見たら、noteでも大声出してて笑った。
永田さんの声が文字を通して聞こえてきた。すごい。文字って言葉なんだ。

いいな。何らかのサブスクを解約して永田さんのnoteを読むべきかもしれない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?