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『オカルトはノードである』

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解説

7年前くらいに電子書籍雑誌『山脈』に掲載した怪文である。
ふと思い出して、読み返したらなかなかおもしろかった、というか、珍しい作風なので、アップロードしてみた。

雑誌『山脈』のコンセプトは「どんな駄文を書いてもペンネームで書けば、バレないし、リスクゼロ!」という、とんでもない雑誌で、色々なペンネームで、色々な駄文を書いたけど、この作品のみ『佐藤家清』という今も使ってる名義で書いたので、わたしの中では比較的まともな文章だ。

変わった作風だけど、タイトルや、文体、デザインはマクルーハンの『メディアはマッサージである』にめちゃくちゃ影響を受けている。

文章ジャンルとしては、おそらく詩の一種であり、たぶんR・D・レイン『好き? 好き? 大好き?』あたりに影響されてできた形態だと思う。

内容自体は先にあげた両作品とはまったく関係なく、オカルト懐疑にはまって、友だちが減ってしまい、なんとかオカルトを肯定しようと模索したときのわたしなりの答えが書かれている。

唯一ある引用文は、ジョン・A ・キールの『プロフェシー』からで、内容自体にも、キールが持つ、「オカルトへの諦念」みたいなものが色濃くでている。

ちなみに、恋人と鼠の死体の話は実話だ。
後日談として、数年後、別の恋人から「この前、生まれてはじめて鼠の死体をみた」と言われ、やっぱり、そのあとふられたので、わたしと恋人においては、鼠の死体は何か重要のメッセージであるらしい。

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