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復活して欲しい(戦後の)NHKラジオ番組をまとめてみた

【はじめに】
この記事では、往年(特に戦後初期)のNHKのラジオ番組から、現代に復活して欲しいと個人的に思っているものをピックアップします。

幾つかは、ラジオではないものの、私(Rx)の関わっているコンテンツで、復活を試みたケースについても簡単にご紹介しておきます。(NHKさん!)

(1945~1958)「街頭録音」

GHQの「民衆の声を伝えよ」との命令のもと、米国のラジオで「Man on the Street」と称された構成を踏襲し、特定のテーマの下で一般市民の自由な意見を放送に乗せることが企図された。
初期は、藤倉修一アナウンサーが録音マイクを手に、東京の日比谷、銀座、八重洲をはじめとする街頭に立ち、通行人にインタビューを行っていた。

「街の声」を聞くニュース番組、インタビュー映像を細切れにして伝えるワイドショーは増えましたが、結構踏み込んだテーマを、1~2分(以上)の長尺でカットも少なく伝える番組は、案外少ないと思います。

番組のフォーマットはのちに、藤倉らインタビュアーが中継車に乗って全国各地の会場(基本的には街頭ではない)を訪れ、テーマにそって、会場に集まった一般市民にインタビューを行う、という方式に変わった。…ただし、このフォーマットは、録音会場が特定の常連客や意図を持った集団に占領されたほか、激しいヤジで参加者の発言が妨げられて録音が不能になるなどする弊害が次第に続出し、番組終了のきっかけとなった。

(1946~1951)「英語会話教室」(カムカム英語)

平川 唯一(ひらかわ ただいち、1902年2月13日 - 1993年8月25日)は、日本放送協会(NHK)のアナウンサー、ラジオの英語会話講座講師。通称「カムカムおじさん」。1946年から1951年までラジオ番組「英語会話」を担当し、人気を博した(番組は「カムカム英語」という別名で知られる。)

2021年度後半のNHK連続テレビ小説『カムカムエヴリバディ』では、先日、さだまさしさんが平川唯一役を演じると報じられました。令和の時代に再び注目されたら嬉しいな、と思っている次第です。

平川の信頼を得てカムカム英語の復活に協力した福田昇八(熊本大学教授)は、平川の著書の解説で、平川英語を「家族英語」と位置づけて評価し、教本を編集して普及を図り、月刊誌の平川追悼文に「日本の英語教育を改善するには、学校英語を口まね方式に転換する必要がある」と書いている。
平川の訃報に接し、ソニー会長の盛田昭夫は遺族に「今や世界の経済大国となった日本の浮上の原動力となったのがカムカム英語だと信じています」という言葉を寄せている。

戦後すぐ、ラジオ第2放送「午後6時から15分間」というゴールデンタイムに放送された他、『証城寺の狸囃子』の替え歌が広まるキッカケにもなったと思います。テキストは、毎回、数百万部(飛ぶように)売れたとされますが、当時の社会環境からして「売れれば売れるほど赤字」だったそうです。

平川は英語教育には素人ながら、音声学と演劇の訓練とアナウンサーとしての経験を活かして英語の普及に抜群の功績を上げた。
平川が自分の体験から考え出した教え方は、日本人家族の日常会話を題材とした「赤ちゃん口まね方式」である。
人間はまず家族のことばを聴いて話せるようになるのだから、単語の発音やスペリングより前に、文字から入る文法方式の学校英語や受験英語とは異なる家族英語を話せるようになるべきだと考えた。
「英文を楽しく口まねすればだれでも英語が話せるようになるんですよ」が平川の口ぐせであった。これは「まずは話せるようになろう」という音声方式であり、なおかつ母語方式である。

この「発想」を根底に、昭和でなく令和の技術(コンテンツ)を併用した、新たな時代の英語学習の形を、ラジオか、テレビか、或いはネット上のSNSか分かりませんが、国民的ムーブメントとなるぐらいの「お化け番組」的に復活すれば良いな、と思っている次第です。

(1946~1964)「話の泉」

『話の泉』は、1946年12月3日から1964年3月31日まで約18年にわたりNHKラジオ第1放送で放送されたクイズバラエティ番組である。
日本の放送界にとって初めてのクイズ番組となった。アメリカ合衆国のバラエティ番組「information please」をヒントに生まれた。当時の日本には「クイズ番組」という呼び名はなく、「当てもの」と総称されていた。
番組はそのときどきの時事の話題からクイズを出題(今日のような最多正解者を表彰する制度ではない)し、そこを発端として司会者のアナウンサーやゲストを交えたトークセッションを繰り広げるというものである。聴取者から寄せられた問題やテーマに対し、解答者が、自らの持っている薀蓄や雑学の知識を出し合って、答えていく。
司会は、和田信賢が務めた(1952年に和田が死去した後は高橋圭三らが担当)。解答者には、……当時の知識人・著名人たちが名を連ねた。
日本で初めてのクイズ番組。聴取者から寄せられた問題に、博学博職の解答者が10秒以内にユーモアを交えて答える。出演者の魅力とともに難問奇問で人気を呼んだ。聴取者からの出題は1日1000通を超え、採用されるのは1300通に1通という難関であった。

と、「NHK放送史」の番組詳細の部分に書いてありますが、ここで大事になってくるのが『(当初? は、)10秒以内に』という短い制限時間があったことではないかと思いました。

ちなみに、この番組は、初期のトーククイズ番組として印象深かったこともあって、平成の時代にはNHK「新・話の泉」として復活させています。

また、変わった所ですと、クイズ法人のYouTubeチャンネル『カプリティオ チャンネル』が、当時の問題文をそのまま出題してワイワイしています。 ↓

(1947~1960)「二十の扉」

『二十の扉』とは、1947年11月1日から1960年4月2日まで毎週土曜日の19時30分から30分間、NHKラジオ第1放送で放送された日本のクイズ番組である。敗戦の2年後から1960年代にかけて、NHKラジオの看板番組であり人気番組であった。
アメリカで放送された同様のクイズ番組『Twenty Questions』をモデルに、CIEの指導のもとで製作された。番組を製作するにあたって、日本独自の様々な工夫が施された。"Questions"を扉とみなして1つ1つ扉を開けていく様子をイメージし、テーマ曲を使わないで扉をノックしてから開ける音で番組を始める演出がされた。また、問題はすべて聴取者から寄せられた。

当時の音源から空気感を楽しんで頂けたらと思います。

(1949/07/30)ゲスト:小野三千麿(野球)
(1952/06/07)文壇「二十の扉」 ゲスト:川端康成、武者小路実篤

この「二十の質問」の形式については、国外では「Twenty Questions」から「ウミガメのスープ」→「Akinator(アキネイター)」へと繋がっていき、

国内でも、NHKが21世紀に入って再び、テレビで「新感覚ゲーム クエスタ」を、ラジオでは令和にかけて「中山秀征のクイズイマジネーター」が放送。(その前には「新・20の扉」としても放送されていました。)

ちなみに、私も「藤倉Rx」として、5ちゃんねるVIP板の「クイズスレ」で、不定期に『二十の扉 in VIP』という企画をやっています。(広義クイズ)

結構、進行とか判定が難しくて「二の足を踏む」ことが多いのですが、鉄板企画なので、開催頻度を上げていきたいと思っています。
「クイズ イマジネーター」は、『二十の扉』に比べて、解答制限は無いですし、問題難易度も易しいですし、ヒントが手厚いので、今聞くにはオススメの番組だと思いますよー

(1950~1964)「今週の明星」

『今週の明星』(こんしゅうの みょうじょう)は、NHKラジオ第1が1950年1月8日に放送を開始した、毎週日曜日の生放送音楽番組である。

毎回3名の人気歌手が出演し、(1)テーマソング、(2)好きな歌、(3)得意な歌と各々3曲ずつ歌い、その間に短い軽音楽と合唱曲が挿入された。テレビ時代になってもラジオで同時放送され、1964年まで14年間続く人気番組となった。

主に20世紀「懐メロ」を振り返る際、NHKは頻繁に『今週の明星』のテーマが頻繁にバックに流されました。
現代における「うたコン」などに繋がる音楽番組、戦後中興の祖でしょう。生放送という観点で言えば、「ミュージックステーション」や、一発撮りで話題の「THE FIRST TAKE」などの源流かも知れません。

そして、個人的には、この番組の前身として1940年代に放送されていた番組の一つ「お好み投票音楽会」についても触れておきたいです。

ウィキペディアなどにも殆ど記載が見当たらず、「リクエスト番組」で検索をしても、1950年代の民間放送の番組ばかりがヒットしますが、それに先駆けること数年、NHKの「お好み投票音楽会」は全国の聴取者から、ハガキでリクエストを募り、ランキング的に発表していたのだそうです。

上記リンク先の画像から連想されるのは、昭和の後期の「ザ・ベストテン」ですが、それより数十年前には「ハガキ」リクエストの文化がありました。

現在のネットでは殆ど引っかかりませんでしたが、確か、昭和23年の頃に、同番組の人気が加熱した頃は、『憧れのハワイ航路』と『湯の町エレジー』という2つのヒット曲が激しく首位争いをしていたと、書籍で読んだ覚えがあります。

結局は、リクエストの加熱化であるとか、『組織票』の問題であるとかで、歪みが生じ始めた同番組は、『歌の明星』(出演者希望)と組み合わさることで、その人気を継承していくこととなったのです。

特筆すべきは、少なくとも1940年代には「リクエスト番組」や「チャート」に見られる熱狂と加熱による歪みが既に起きていた点でしょう。

地上波TVで「ランキング番組」が相次いで終了する令和の時代においては、SNSなども駆使しつつ、新たな「ヒットチャート」の模索を続けつつ、熱狂と冷静さを併せ持った新たな人気番組の誕生を期待したいところです。

(1951~1970)「三つの歌」

『三つの歌』(みっつのうた)は、1952年1月7日から1970年3月30日まで18年3か月、ラジオ第1で放送された聴取者参加型の娯楽番組である。
弾むような声の宮田輝の司会で、出場者が天池真佐雄のピアノのメロディーを聞きながら歌詞を間違えずに歌う番組である。

『三つの歌』は、私が古いラジオ番組の復興に興味を持つキッカケとなった番組、やはり宮田輝アナウンサーの名調子に憧れる部分が大きかったです。

(1952/01/07)番組初回放送
(1960/02/??)1960年(昭和35年)2月OA ラジオ番組「三つの歌」
(1963/08/07)三つの歌 日本縦断対抗リレー第一夜

「長崎の蝶々さん」や「十代の恋よさようなら」など、昭和30年代の名曲が『リアルなヒットソング』として愛唱されていた頃の空気感が伝わります。

私も、先述のクイズスレで『三つの歌 in VIP』を開催したことがあります。これも「宮田Rxアナウンサー」を名乗っての司会ですが、昭和・平成・令和のヒット曲でも、歌詞を間違いなく思い出すのは相当に難しかったですね。

(1977~1991)「にっぽんのメロディー」

昭和前半の空気を残しつつ現在も放送が続いている番組に「ひるのいこい」がありますが、私はそれよりも更に懐かしい昭和の空気感を伝えてくれる、ミニ音楽番組として、「にっぽんのメロディー」を推させてもらいます。

『にっぽんのメロディー』は、1977年から1991年3月まで放送されたNHKラジオ第1放送のラジオ番組である。
この番組は中西龍がNHK退職前後からパーソナリティを務め、主として戦前 - 戦後初期の懐メロにスポットライトを当てて、リスナーから寄せられたメッセージとともに当時の楽曲を放送していた。なおリスナーから寄せられたリクエストに対しては必ず放送日を事前に告知したという。

中西龍アナウンサーの口上が、夜の深まりつつある頃にピッタリでしたね。
一人称として「私」ではなく「当マイクロフォン」を使っていました。

何よりも、懐かしさを覚えるのが、OP/ED両方にBGMとして流れていた、『赤とんぼ』でしょう。(出典)小出道也/美しい日本のうた~〈オカリーナの調べ〉 (キングレコードSKK-765, 1972年)

このBGMに乗せて、オープニングは、中西龍アナウンサーの名口上。

「歌に思い出が寄り添い、思い出に歌は語りかけ、そのようにして歳月は静かに流れていきます。皆さんこんばんは、にっぽんのメロディー、中西龍でございます」

そして、2曲ほどリクエスト曲を紹介した後に、EDでは再び『赤とんぼ』に乗せて、俳句を1句紹介。最後に優しい言葉をかけて番組が終わります。

中西龍 にっぽんのメロディー a
中西龍 にっぽんのメロディー b
中西龍 にっぽんのメロディー c
中西龍 にっぽんのメロディー d
中西龍 にっぽんのメロディー e

「俳句」+「音楽」という番組の時間表を真似ることは出来るかも知れませんが、やはり中西龍アナウンサーの名調子がなければ、この番組の復活は、難しいのかも知れません。(JETSTREAMの城達也機長しかり)

(2010~2013)「渋谷アニメランド」

昭和の話ばっかりだとアレなんで、ここから少し「平成のラジオ番組」も。

様々なアニメの声優や効果音、アニメソングなどの「音」について取り上げアニメ作品を解説する。

2000年代に「アニソン三昧」がお祭り騒ぎとなるなど「NHKの本気」が度々話題になっていた頃、NHK初のアニメレギュラー番組としてスタートしたのが、「渋谷アニメランド」でした。

派生番組には、2011~2012年度にかけて『エレうた!』があり、コンピュータ合成ソフト(ボーカロイド・UTAU)を活用した楽曲を紹介するという、時代を先取り(し過ぎた)番組もあったことを触れておきましょう。

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さて「渋谷アニメランド」は、レギュラー放送だった2010年からの3年間、アニメ評論家・藤津亮太さんと、音楽評論家・冨田明宏さんが、隔週MCでゲストとトークを展開するNHK×アニメらしい落ち着いた番組でした。

(2012/09/23)冨田明宏 × 竹達彩奈
(2013/02/03)藤津亮太 × 虚淵玄

現在もネット上に残っている数少ない音源のリンクを貼りましたが、どちらも豪華なゲストとたっぷりトークをするあたり、大変貴重でした。

(2011~2013)亀渕昭信のにっぽん全国ラジオめぐり

アニメ・声優関連だけでは少し偏りが酷いのでww 同時期のラジオ番組からもう1つ。「亀渕昭信のにっぽん全国ラジオめぐり」をご紹介します。

元ニッポン放送パーソナリティで、フリーアナウンサー・音楽評論家として活動する亀渕昭信が、自らのラジオ業界への恩返しと、新しいラジオの魅力を発見するための「ラジオルネサンス」作りへの挑戦を込めて、
全国各地の県域民放ラジオ局、さらにはコミュニティ放送を毎回1局ずつ取り上げ、その地域でしか聴くことのできないローカル番組や名物パーソナリティをNHKの電波を通して大々的に紹介しようとするものである。

特筆すべきは、NHKで「民放」全面プッシュの番組だった点でしょう。

MCは、「オールナイトニッポン」MCからニッポン放送代表取締役社長にまで上り詰めた(?)カメこと「亀渕昭信」さんです。
そして取り上げる番組も、全国の民放各局のローカル番組なのですから!

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番組が始まったのが、(偶然にも)2011年3月29日、東日本大震災発生から半月後というタイミングで、前年末に本格運用が始まった「radiko」が災害報道のためにエリア制限を一時的に解除していましたが、まだ今のように「エリアフリー&タイムフリー」が始まる前でした。

2014年4月からは加盟局を全国で聴取可能とする有料サービス「radiko.jp プレミアム(エリアフリー聴取)」も開始

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令和の現在であれば、全国どこからでも、気に入った番組を視聴することが出来るようになります。番組で取り上げられた週の放送から(或いはタイムフリーを使えばその週の放送まで)聞けますから、これもいささか時代が早すぎた感があるかも分かりませんww

【おわりに】

これらの番組が、特に「令和」の時代、インターネットやSNSが一気に普及した現代において、どの様に「復活」するのかを妄想するのが楽しいです。

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世の中は、「温故知新」です。今、流行っている話題のコンテンツも、昔から知っている人からすれば、『焼き直し』だと感じるかも知れないのです。

現代の要素を「ひとつ」加えるだけでも、昔の面白いコンテンツは、鮮やかに蘇り、或いは過去を知らない人には「新鮮」に見えるものだったりするのです。(これは「ラジオ番組」に限った話ではないでしょうけれどww)


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