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名画「幽世の藤棚」に寄せて

その気配は、この場所に至る前に
すでに感じていたものだった。

邪まなものではない。
だが、聖なるものとも判じがたい。
強いていうのならば、異なった貌が
「同時に存在」しているかのようだ
った。

誘い香を追って辿り着いた場所に
あったものは…
薄紫と純白の花弁が見事に咲き競
う藤棚だった。

私は眼を見張った。
これほどの規模の藤棚はついぞ眼
にしたことはなかった。

「見事であろ?」

あまりの見事さに、心を奪われて
いたものか、その声は油断してい
た私を驚かせた。

「我が護りし、愛し子の面影よ」

柔らかく儚げでありながら、凜と
したその声の主は、口元に繊手を
当てて佇んでいた。

「あなたは」

「鶴よ」
問い掛けに答えたその声は清らか
で静かで、そうして恐ろしいまで
に美しかった。

鶴の神性がこの地におわすことを
聞き及んでいなかったことを私は
恥じた。

「お主は」
鶴の神性はふわりと距離を詰めると
面白そうに私の瞳を覗き込んだ。
「そうか、応えずともよい」
無邪気な微笑み。

約定に応えねばな、と鶴の神性は
舞扇を静かに広げると藤棚の上に
舞い上がった。

約定?
「ああ、遙かな時の果てで」
時の果てで?
「我が舞いをみせると」
舞いを…
「そうだ。見せると交わしたのだ」

記憶にはなかった。
だが、そういった約定があったの
かもしれなかった…

老いた画伯は静かに微笑むと、
「それが、あれだ」
と、私たちを促した。
未完の大作として名高いその絵は
確かにそこにあった。

「さ、見届けてくれるかね」
画伯はゆらりと立ち上がると

そのまま絵の中に歩み去り

私たちは、この先永く封じられる
ことになる一枚の名画が完成する
様を見届けたのだった。


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