メモ:航海の神ディオスクロイにおける「聖エルモの火」と「嵐の後の星」について

さて、今回は少しゲームを離れて「聖エルモの火」に関する話題。

沓掛先生の『ホメーロス諸神讃歌』においては下記の記述がある。

初めは嵐の後に輝き出る星とされ〜時代が降ってからは、嵐のさなかに船のマストなどに見られる、いわゆる「聖エルモの火」が〜二人の神(注釈、ディオスクロイ)の顕現だと信じられることとなった。
『ホメーロス諸神讃歌』(一部略)

これの記述の背景はおそらくこういうことだろうと推測する。

古来からの文献として「聖エルモの火」としてよく知られているのはローマ時代の大プリニウスである。
「聖エルモの火」に関する記述は他にもユリウス・カエサルなどが知られるが、いずれにせよローマ時代によっており、それ以前の時代において彼らが聖エルモの火をディオスクロイと呼んだかの明確な証拠はない。

故にディオスクロイの記述としてはそれ以前からある「天に上がった星」(嵐の後の星)という発想が古いものであり、その後に「聖エルモの火」が付随したのであろう、という考えに至ったのではなかろうか。(あくまで推測)

これについては個人的には、それこそ『ホメーロス諸神讃歌』のディオスクロイの内容を読んでも「嵐の後」の出来事だと捉えるのは難しいのではないかと首を傾げるが、実際にこの一文があらわす意味について調べたところ、下記のような状況であった。

ディオスクロイ「星」か「光」かの研究推移

実際『ホメーロス諸神讃歌』が参考にしていたうちの一つである『Commentary on the Homeric Hymns』においては、ディオスクロイ讃歌33番に対し、翼を持つディオスクロイ」は時代が降ってからの描写の証となるため、前アレキサンドロス期ではないか(つまりは前ヘレニズム期、紀元前4〜3世紀)と推定している。

この20世紀初頭頃、「聖エルモの火」とディオスクロイの描写が描かれていたものは先述したローマ時代のものに限られていたようだ。
一方でエウリピデスによる『ヘレネ』などの作品、(作品はローマ時代は降るが)ペレポネソス戦役中の内容を書いたプルタルコスの『リュサンドロス伝』内の描写などにより「天の二つ星」とでも評されるディオスクロイの描写は紀元前5〜4世紀頃の内容があり、「星」と「光」の描写には数百年近い開きがあった。

しかもこの時期、おそらくは「明星」を起源とするであろうインドのアシュヴィン双神も発見されており、「明星」の双子がやがてギリシャに流入し「星」として崇められたという話は割とすんなり受け入れられたに違いない。
(ただしその一方でアシュヴィン双神が「嵐の後の星」として崇拝された形跡がなさげなことにも触れたい)

この段階では(古典期の)「星」の描写が時代を下り(ローマ時代の)「聖エルモの火」となった、という考えはまったくもって真っ当である。

クセノフォン、アルカイオスのフラグメントの発見

この十数年間に、新たに紀元前5世紀のクセノフォンの記録の中で「ディオスクロイとも呼ばれる船の上でみられる星の光のような現象は、実際は雲のようなものである(かなりの意訳)」という記述が見つかった。

本件は2008年のことなので、そりゃ『ホメーロス』に載ってなくても当然のことであるし、おそらくこれ以降に改定があればそれなりの修正がなされたのではなかろうか。

また加えて前回の記事で紹介した「アルカイオスの讃歌フラグメント34』が発見されたのも割と近年のことのようだ。

実際に『The Oxford handbook of Presocratic Philosophy』においては「アルカイオスやクセノフォンのフラグメントが発見されるまで、聖エルモの火はローマ時代の発見だと思われていた」とある。

アルカイオスやクセノフォンは紀元前6〜5世紀の人物のため、「星」としていたエウリピデスよりも遡る。

では逆に「星」は後付けであり、「光」こそが最古のルーツか?ということになれば、(個人的には死者の国は地下から空に移ったのではないかと思っているのでそうだ!と言いたいところなのだが)実際は早計なのだろう。
両者は百年近くしか差が開いていないし、今回のように遡った記述が見つかっても何らおかしくはない。

これはまた『ホメーロス諸神讃歌』におけるディオスクロイ讃歌の成立時期を巡る話でもあり、「光の翼」の描写がネックとなり、過去の文献では紀元前4〜3世紀とせざるを得なかった。
しかしクセノフォン、アルカイオスの文献を得て、最大で紀元前7〜6世紀頃まで遡る、という考えで間違いはないだろう。
(※知らない方向けに、『ホメーロス諸神讃歌』はホメーロスの時代ぴったりに作られたものではないので、数十の讃歌はそれぞれ成立時期に数百年の幅があります)

『ホメーロス諸神讃歌』内の記述については、元の文献を全て追ったわけではないため、どのように考えられてこの一文を記載されたかは完全な推測はできないが、重要なのは現在の研究では、ディオスクロイの「聖エルモの火」がローマ時代のものであるという認識は古く、『ホメーロス諸神讃歌』の時代に、つまり最古のアルカイック期に近い時代にはすでに存在していたことが判明したことである。

航海の神としての記述は『ホメーロス諸神讃歌』が初出と言えるため、過去には「最初は星、その後に聖エルモの火」だったものが、現在は少なくとも「星が最初か、聖エルモの火が最初かはわからない」と言ったレベルには変わっていることをここに残しておければと思う。

またディオスクロイの星がすなわち、アシュヴィン双神の「明星」に繋がるかどうかは、例の如く私が見つけられていないだけの可能性もあるが、まだ疑う余地は多いのではないだろうか。
少なくとも手元の『リグ・ヴェーダ』(岩波文庫)にはそれらしい記述はなかった、…と思われる!

またアルカイオスやクセノフォンの発見については、これは単なる文献の発見だけでもなく、アルカイック期以前のディオスクロイ信仰のあり方にもつながる話なので、割と重要な話である。

今後の展開に期待したい。

7/8、19〜20世紀の関連学術資料を確認し、ディオスクロイの研究推移について追記しました。
7/12 クセノフォンが紀元前6世紀の人物となっていたので、紀元前5世紀に修正しました。

(参考文献はのちに紹介)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?