見出し画像

人生の過ちの取り返し方

取り返しのつかないことをしてしまって、いくら詫びても許されないのではと思う、そんな出来事を背負うひとへ。

あの時わたしの口から出た言葉は、今どうあがいても取り消すことはできず、むしろ弁明がその言葉を際立たせるような気がして、15年ほど経っても口に出すことができないでいる。

今年、子育ての卒業式という結婚式を迎えるにあたって、きちんと自分の過ちを謝罪したいと思っている。そして自分の人生をもって、その過ちを過ちだったと示していかなければとも思う。

***

きっかけは些細なことで、買い物の帰りに外食がなくなったとかそういう理由だったと思う。虫の居所が悪かったわたしは、にゅっと芽生えた残酷な気持ちを抑えられなかった。

「大人になっても、ぜったいママみたいにはなりたくない!」


その瞬間、さっと母の顔が陰った。
父に普段通り怒鳴られるのを待ったが、はっするような強く悲しい声色で、頭を冷やすようにと暗い畳の部屋に入れられた。

また数年後。
実家のすぐそばに住む祖母と叔母が、母に少し我儘な注文を出すことが続いていて、母の愚痴を聞いていた私はそれをやめさせたかったのだ、
叔母に向かってこう告げた。

「おばあちゃんとおねえちゃんは家族じゃないと思ってるから。」

祖母と叔母がどれだけ私たちを応援してくれていることか。告げた瞬間に何か間違っていた気がして、でも訂正する言葉が出てこないまま、バイバイをするまでまともに顔を見られなかった。

***

世の中には、もっと取り返しのつかない過ちを抱える人がいるのだろう。
わたしは今でも、母や叔母と上手くやっているのだから、もう気にすることではないと世の中は返すかもしれない。

しかし、

はっきり100:0で私が間違っていたと言えるからこそ、今思い返しても母や叔母の心の痛みを想像して泣きそうになるからこそ、何とかして取り返したいのだ。

母や叔母がもしかすると傷ついた心の記憶を、差し替えることはできなくても、焦げてしまったケーキの焦げをこそいで美味しくコーティングするようにできないものか。

親は子どもに夢を見る。

だからこそ、自分ができなかったこと、自分がして欲しかったことを子どもに投影する。
勿論、大部分は子どもを愛するがゆえだが、その背景には、改めて自分の人生や価値観を子どもの人生を通してこの世に示したい思いも多少あるのではないだろうか。

だとしたら、

母や叔母の尊敬できるところを私の人生で具現化していくことで、本当の意味で過去の過ちを取り返すことができるのではないだろうか。

今後、家族に対してまた取り返しのつかない間違いを起こしてしまうことがあるかもしれない。

そのときはきっと、心からの謝罪をした後に、相手の尊敬できるところを自分に取り込んでいくことでしっかりと取り返していきたいと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?