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私の生い立ち4 ぼくらのホラーブーム(8歳〜9歳)

前回までのあらすじ
1学年30人の小さな小学校に入学した黄色井モモ子。カワイの電子オルガン、ドリマトーンを習い始める。また、吃音があり、「ことばの教室」にも通うようになった。

 1991年、小学校2年生。この年のことは、ほとんど覚えていないので、槇原敬之の『どんなときも』が大ヒットした年と書いておこう。ただし、この歌手のことを私が知るのは、もっとずっと後のこと。

 アニメ『きんぎょ注意報!』にハマっていた私は、講談社の少女漫画雑誌『なかよし』を毎月、買っていた。『きんぎょ注意報!』のほかに好きだった漫画は、『コンなパニック』『パラダイスカフェ』『ミラクル⭐︎ガールズ』など。放課後、公園に集まり『りぼん』を買っている友達や、『ちゃお』を買っている友達と、よく回し読みしていた。恋なんて全くわからないくせに、少女漫画の世界にどっぷりと浸かっていた。

 静岡県では夕方、『ドラゴンボール』や『キテレツ大百科』が頻繁に再放送しており、それを見るのも楽しみだった。

 1992年、小学校3年生。毎週土曜日は、18時半に『幽☆遊☆白書』を見たあと、19時に『美少女戦士セーラームーン』を夢中になって見ていた。また、水泳を習い始め、小学校5年生まで続けていた。

 学校では、ヒロキ先生という若い男性教師が担任。ヒロキ先生は、宿題を出さない先生だった。昼休みは校庭に出て、児童とよく遊んでくれた。ただ、ヒロキ先生は何かあると、すぐにゲンコツを落とした。忘れ物したとき、喧嘩したとき、授業で答えられなかったとき…ゲンコツで全てを解決していた。

 当時、私のクラスでは、ちょっとしたホラーブームだった。『学校の怪談』『学校の七不思議』『トイレの花子さん』『口裂け女』『こっくりさん』などの怖い本が図書室に置いてあり、いつも大人気だった。私も、お友達のフルタくんと、人がばたばたと死ぬようなホラー小説をノートに書いて、お互いに読み合っていた。

 ある日の休み時間、とてもよく書けたので、ヒロキ先生に読ませてみようということになった。

 小学3年生が書いた稚拙な小説に目を通した、ヒロキ先生は読み終えると、私とフルタくんの頭にゲンコツを落とした。とても痛かったし、なぜゲンコツされたのかわからなくて混乱した。

「おまえたちは、人の命を軽く見すぎている」

「学校に置かれている怖い本だって、人が死んでいますよ」
「ドラゴンボールだって人が死んでいるし」

 と、反論する私とフルタくん。

「おまえたちの書いた話は、教訓がなく、ただ人が死ぬだけで、読んだあと何も残らないじゃないか。先生には命を軽んじているように見える。命の重さを感じて、考えることができるようになれ」

 あの頃は、正直あまり納得できなかった。それ以来、私とフルタくんはホラー小説を書かなくなった。

 あれから私も大人になり、趣味で小説を書いたりもするけれど、作中で人を死なせなくてはいけない時は、物語に必要な死なのかどうか考えて書くようにしている。

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