私の憧れの人、未来で待ってて。
なりたいものって何?
この時期のnoteではミッチーや岡村ちゃんみたいになりたいって言っていたけど
おおよそ季節が一転して過ごしている今。
「ちょっと違うかもな」とこの憧れのジャケットの着心地の悪さを感じている。
夏でぐったりしているのが続いているのが悪いのか、他人にサービスが出来ないぐらいどろどろになっている。
きらきらと自家発光する人にはすごく憧れている。
そう思うと一度だけ見た宝塚歌劇団もすごく魅惑の世界だ。
だがしかし、自分で輝く人には条件がある、弛まぬ努力をすることだ。
それがどうした今の私は。
やりたいこともやるべきことも中途半端でどろどろとなっている。
めまいでぐるぐるするあたまで「まあ夏だから仕方ないよね」と呟く9月の下旬。
誰かになりたいという願望の皆無さ
思えば幼稚園の頃、お誕生日用の絵本を作って貰うときに「将来なりたいものはなんですか」という質問に私は大層困らせられた記憶がある。
年少の私も年中の私も年長の私もびっくりするぐらい「自我」が強くて「自己満足度」が高かった。
「私が私以外のなにかになれと?」とどこかに傲慢さを持っている幼稚園生だった。
適当に絵本のイラストを見て絵にあった「バレリーナ(バレエは習っていない)」とか「バスガイド」と答えていた気がする。
「私は私にしかなれない」ということはとっくに昔の私の方が自覚していたのだ。
それからというもの憧れの存在(人物)は不思議と存在していなかった。
職業は決まっていた。家業を継ぎたかったのでそれに関する資格を取ることを決めていたし紆余曲折ありつつ無事取得することも出来た。
「推し」はいるけど私はどこか破綻している人が好きになるのでそれを憧れにすると無頼派の私はさらに無頼派になってしまうと思うとNGだ。
「**ちゃんみたいになりたい」という願望は今まで持ったことがない。
だって「**ちゃん」と私は他人だから。同一化してしまったらそれこそ人類保管計画だ。
憧れを消化できはじめているのでは?
自問自答ファッションを始めるようになって自分で考えて服を買う、鞄を買う、靴を買う……と常に判断を求められる場に立つことではっきりしてきたのは
「私はどう足掻いても私」でしかないことだ。
好きになるものは同じようなものだし、愛せるのも似たような形をしたもの。
「**ちゃんが着ていたから欲しい」って思ったことはない。
きっとこれからもずっとそう。
あえて大げさにことを言おう。
私の人生の主役は私。憧れは未来の私。
ついにここまでこれたんじゃないか?と徐々に気付いてきた。
他がために生きるか我がために生きるか
自分と他人との関係に悩んでいることをぼそぼそと配偶者に話していたときに
「でもあなたは他人に対してすごく優しいことが根底にあって、それが美徳だと思うんだけど、同時にとても自我を張ることも出来る人だから他人と自分のことを同時に成り立たせられることはすごいことよ」
と言われたばっかりだった。
他人に優しくあろうと思えるのは確かに美徳だけど
今の私に必要なのは『私を成立させることなのではないか?』と思います。
私はもっと私の未来を愛してみたい。
今の私に「OK」サインを出してあげたい。
そしたらもっと色んな人に「いいね!」って言えたり手を差し伸べられるようになるかもしれない。
もっと他人に優しく出来るように自分を優しく取り扱いたい。
どんな状況になったとしても自分の味方でいられるように。
そうしたら自然と、昨日より今日の私がより「憧れの存在」になれるんじゃないかって思う。
ーーん?なんだ、結局私は自分で自分を輝かせたいんじゃない?
と、思考は振り出しに戻るのであった。
(多分暑さでちょっとまいっていたんだろうけど根本はこのままなんだろうね)
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