どん底の悲しみを味わって

6月8日のことでした。
昔の同僚と飲んだあと、私は今までの人生で味わったことのない悲しみに襲われました。
3月1日に味わった虚無とはまた別の。お腹の底が抜けるような虚無、自分の存在が丸ごと宇宙のブラックホールに吸い込まれていくような虚無があったのだけれど、質量ゼロの虚無に比べると、悲しみは質量があって、重たくて暗い真っ黒な湖が心の底に静かに横たわっているような感覚でした。
もう、ないんだ。何が? 私が無意識にいつか味わうはずだと信じていた何かがこの人生に訪れることがない。それは何?普通の幸せのようなもの。普通の幸せな家族像の中にいる自分。それは、望んだことがないもののはずだった。本当は望んでいたのではないか?望んでいることにすら気づかずに、やり過ごしてきてしまったのではないか?

はじめはそう思った。
けれど、悲しみの源泉は、もっと深いところにあるように思う。人と同じ幸せを望むことができない悲しみ。あたたかな家庭に憧れることができない悲しみ。家庭は戦場だった。母にとって戦場だったから。
私は、あたたかな家庭を知らない。

あたたかな家庭、愛によってすべてが許されている家庭を知らない。わたしが体験したのは、わたし以外のきょうだいの事情に振り回されている家庭、能力で評価される家庭、能力によってこそ許される家庭だった。

つらい世の中だと思う。
家庭は、社会の縮図だったと思う。
そのような家庭で育った私の目=フィルターから見える世界が
つらいものなのかもしれない。

そして社会は、言葉によって伝承や記述がなされた総体です。

だから、家庭というフィルターを通して社会をみたものを、ひとりひとりが記述することで社会は書き換えられていく。記述を集めるということが、今の社会の形を正確に捉えることにつながる。正確に捉えることができれば、政治はより政策的になっていく(可能性が少なくとも今よりは上がる)。

つまり、家庭によって与えられるフィルターを変え、言葉になっていないものごとを言葉にすること、伝えること残すことが社会を変えることだと私は考えます。

親たちは悩んでいる。
書くこと言葉にすることで自覚する。

自分のままで生きていける社会にしたい。
それは、生まれた家庭で授けられたフィルターを自覚し、
そのフィルターを通して見ている社会を記述することや、
書き換えていくこと。

キーワードは「自覚」です。

世の中にある、不完全なものさし(偏差値とか年収とか)だけで測られたものが自分だと思い込まされないように気をつける必要がある。
はじめにどうしてもフィルターを与えられざるを得ないとしても、それをどう使うかは自分次第だということ。使い方を選ぶことで、フィルター(=主観)そのものも変えていけること。そして、客観的に自分を測るものさし=選択肢すら、自分でつくっていいんだということを、自覚してください。そのためにはまず、自分がどんなフィルターを持っているのかを自覚してください。

あなたがあなたのフィルターを通して見ている社会が、社会の現実です。
子どもの貧困という課題があるとして、それをあなたはどんなフィルターで解釈しますか?不平等への義憤ですか?そこにいて困っている人への憐憫ですか?自分が暮らす社会にあってほしくないという美学ですか?困っている人に手を差し伸べたいですか?格差が生まれる構造に物申したいですか?物申すだけでなく、実際に変えたいですか?弱者を救済するはずの政治や行政が仕事をしていないことが不満ですか?まずは貧困とされる人の実情が知りたいですか?助けてもらえる人に嫉妬しますか?何よりもまず原因を知りたいですか?自己責任だから放っておけばいいと思いますか?子どもの貧困を課題だと思い興味を持っているじぶん自身を知ってほしいですか?

どう考えようと、すべて正解であり、重要なのは、自分がそう思っていると自覚することと、それを人に伝えることです。

人生は自分を知る旅。他者は助けてくれる鏡。
自分を知るとは、じぶん資源を掘り続ける営み。
これ以上、地球の物理的資源を掘り続けると人間にとって不都合が増えるけれども、じぶん資源の開発に不都合はない。自分がやるべきことがわかり、自然に分散し、単一の物差しによる格差はなくなり、人はより主体的に全人性を発揮して生きることができ、全人性を発揮すれば創造性が発揮される。

すべての病気は「細胞の異常」に起因する。

すべての社会課題は「ものさしの異常」に起因する。



沈思黙考


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