結婚しないほうが幸せ(仮)

女の人生。

筋力が弱く、体力・知力・胆力どれもが男より劣っているとされる人間。

子どもを産み、炊事洗濯をし、男に可愛がられて初めて価値を持つとされる人間。

そういう女という性に生まれて、何をどうやって生きていけばいいのかを
書いてみたいと思う。

まず第一に正解とされる生き方は、強い男の庇護のもとに入ることである。
仕事を持っていようといまいと、それはおまけにすぎない。
男の庇護のもとに入るかどうか。それが女の道を分ける第一の分岐点だ。

たった一人の男と婚姻関係を結び、その男の名前を名乗り、経済的に扶養対象とされる制度がある。つまりそれが結婚であり、男の庇護のもとに入る状態を国に届け出る制度だ。

2019年3月現在、その制度で認められた妻という立場を得ることが、女の人生の成功とされている。

カップリングは80年ほどの人生のうちの、20年ほどの間が”適齢”とされている。なぜならば、繁殖は婚姻関係にある男女によってされるべきものとされており、女性の出産が可能な年齢が20年ほどだからだ。

つまり、女性は出産が可能な期間中に、女性を扶養できる男性と婚姻関係を結び、出産をするものとされている。その圧倒的など真ん中の王道と比べて他の道はあまりにもか細く心もとない。また、圧倒的など真ん中の王道において、出産した女性が子育て以外の何をしても、所詮はおまけである。

多くの既婚男性は、しばしば思い出したように妻への感謝を口にする。

それは見上げられるべき行為かのように扱われるが、裏を返せばそれ以外の時間は妻によって自分のために行われる一切の行為は、して当たり前とされている、ということである。

その家事育児の雑事一切のためにしたくてもできなかったことは、闇に葬り去られる。

そのような犠牲はすべて「内助の功」という便利な言葉で上澄みだけをすくい取られている。女性は三歩下がって男性を立て、男性の成功を内助の功で支えてこそ一流。男性の気分の維持を第一に、容姿を美しく保ち、美味しい料理をこしらえ、家を清潔に保ち、子をつつがなく優秀に育てることこそ女の器量。

わたしはこの一連の価値観とストーリーを真っ向から拒否している。

たった一人の男に我が人生を召し抱えられるなんて、まっぴらごめんなのだ。

そうではない人生を、わたしは自力で開拓し尽くして死ぬ。

それが私の本望である。

わたしの人生のハンドルは私がにぎる。

そのために生まれてきたのだ。

新しい価値観には、ストーリーが必要だ。

結婚しないほうが幸せというもうひとつの価値観を生み出すストーリーを今まさにわたしは身を以て紡いでいる。他の、独身で生きる女たちとともに。

結婚には、もう一つの側面がある。それはお互いに相手を独占するという公的な約束である点だ。

果たしてひとりの人間がひとりの人間を独占することなど可能だろうか。

人が人を好きになる気持ちを、結婚という制度によって制限できるものだろうか。

それは抑圧以外のなにものでもないのではないか。

逆の見方もできる。

たったひとりのあなたとたったひとりのわたし。二人ともお互いにとって他の誰とも違って特別で、だから私たちの関係性は唯一無二。その関係性に、形を与えて何が悪いの?

私にもかつて何度か、結婚寸前までいったステディな彼がいた。だから、わかるよ、その気持ち。だけれども、だったら逆に、その唯一無二の関係性に与えるかたちは、みんなと同じ「結婚」でいいの?

いいのだ。なぜなら多くの結婚は、唯一無二の関係性である必要などはなく、孤独対策だからだ。

ある日本を代表するアートディレクターが語ったのをわたしはこの耳できいた。「結婚はしないですむならしないほうがいい。どうしても、お互いに縛り合うことになるから。だけれども、どうしてするかといったら、やっぱり寂しかったりするから。」

表現者らしく本質をついた、実感を伴って嘘のない物言いだった。わたしは既婚者のこの矛盾に満ちた心情に、結婚の真理を見た。わざわざ生まれてきたのにわたしという人間は一人しかおらず、突き詰めれば孤独に生きなければならない人生の不条理をごまかすために社会に埋め込まれた、結婚はひとつの強力なスキームなのだ。そのスキームの上に、幾多のコンテンツが生まれ、それが消費され、人は孤独をごまかして生きていく。

結婚すれば、少なくとも形式上はお互いを独占することで、ひとりで生きる孤独から逃れられる。いや実際は逃れられないのだが、ごまかすことができる。結婚に付随する責任を負えば、人生の時間を持て余し、手持ち無沙汰でどうしようもない気分になるリスクを減らすことができる。

そういう意味では、結婚は人生と同じ暇つぶしなのかもしれない。だが、付随する責任が女性にとってより重いことは、前段で述べたとおりだ。

「いやいや何をいう、男が負う責任を甘く見るな、家族を養わなければならないんだぞ。」そう言いたい御大もおられよう。

そんな殿方には、軽々と私はこう返したい。

「じゃあ、やってみますか?女性側として、結婚を。わたしはそのへんの男より稼いでいるので、世が世なら家族を養うこともやぶさかではありません。ただお金を稼いで家に入れるだけでいいのでしたら、いつでもいたします。むしろ、それをするだけで、家族を養っているという誇りを得られるのでしたら、ぜひともしてみたいものです。」

女性の経済力が向上したことで、主夫という存在も現れた。ここで問題になるのが、男のプライドというやつである。

より強いビックリマンのシールを集めることと、集めたシールを友達と比べて勝ち負けを決めることに血道を上げる男子小学生の大群をわたしは見たことがある。これと似た現象は、日本列島老若男群のすみずみで起こっている。集めるのは、ビックリマンのシールではなく名刺や肩書きかもしれないし、もしくは車や時計、ひいては女性である場合もある。

そういう競争大好きな生き物であるところの男は、果たして他の主夫よりも家事ができると燃えられるだろうか。わたしの視野が狭すぎるのなら教えていただきたい。そんな男がいるなら、ぜひとも会ってみたいからだ。



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