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慶長6年(1601年)3月22日は毛利秀包(ひでかね)の命日です。

勇猛かつ実績はあるのに後世で名を轟かせられない戦国武将。
慶長6年(1601年)3月22日は毛利秀包(ひでかね)の命日です。
あの元就の九男であり、西の最強武将・立花宗茂と義兄弟であり、戦国ファンにはたまらない経歴に恵まれているのにいまいち認知度低い。元就は正室の4子と側室の子を、明らかに差別しており「獣」とも呼ぶほどだった。秀包も幼少から養子に出され3度目で兄隆景の要請で小早川家の嫡子となる。子供ながら元就の英邁さを色濃く受け継ぐ秀包は期待の男子だった。本能寺の変後、秀吉に降った毛利の人質として大坂へ。他の人質は直ぐに返されたが秀包は秀吉側近に取り立てられ「秀」を偏諱された。小牧長久手の戦いなどに従軍、抜群の武功で小姓ながら5万石を領する事になる。ここから政局に巻き込まれ小早川家は廃嫡、毛利姓に戻し関ケ原へ、大減俸の毛利で秀包は僅かな所領を与えられ失意のまま35歳で早逝 #どうする家康 #大河ドラマ

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