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20240713_べらぼうくん

万城目学「べらぼうくん」を読んだ。

読んだら全員思うよな、京都で大学生活を送ればよかった!!と。

なんかキラキラした素敵な大学生活が描かれているわけではないのに説得力があるのはいまの万城目学さんを知っているからなのか。

ただ18歳くらいの、まだ進路が決まっていない私がこれを読んでも絶対に将来は変わっていない。保守的で怠惰な私は絶対に東京を出ないし、絶対に一人暮らしなんかしない。

いまの気持ちのまま若返ったら将来は変わる。京都に、無理でも他の地方都市とかで大学生活を送ると思う。ここ数年で私はたぶん普通の20代後半の人間よりも性格や価値観が変わったので。来世に期待。

「もしも、あなたが将来について、手がかりが見つけられず悩んでいるのなら、他人の成果を見て「こうすればいいのに」と自然に、もしくは簡単に発想が湧いてくる分野に注目してみよう。」

成人式かなんかで、小学校の頃の同級生に会ったとき、大学卒業したら小説家になると思った!(私が)本読むの好きだったから!と言われてすごくびっくりしたことがある。

えっあなたドラマ観るのがすきだったら俳優になります??というような疑問と、そんな本読むの好きな人に見えてたんだ(まあ好きなんだけど)という気持ちを覚えている。

小説は書けないと思う。ストーリーやキャラクターが思いつかないから。

文章を書くのは好きだけど、それはあくまで形式として、あくまでというかどこまでも真に形式として好きなので、そこにある程度優れた点があったとしても、ガワでしかない。ここに別に優劣はなくて、ガワだけでもよいと自分は思っている。

学生の頃から、いまもたまに文章や言葉の表現を褒められることがある。こうすればいいのにと他の人の文章に思うこともあるし、そういう表現にこだわる時間は楽しくもある。

でも小説は全然違う。料理がすきでも野菜は育てられないくらい違う。つまり実際は分業されるべきことをひとりがやってしまっているのが小説家だと思う。

漫画のほうがよく見るけど、原作と画がちがうひとのときがあって、本当はそれが正しいと思う。たまに自分が作った野菜をお店で出しているシェフがいるけど、その「たまに」より、小説家がひとりでやっている確率は明らかに高すぎる。

これは文章を書く、ということかある程度誰にでもできることだから(本当にそうなのか。漫画よりはそうか)なのか、ストーリーを思いつくようなひとはそれを形にすること自体には問題がないひとが多いのか、編集者的な存在がその分業を結局担っているのか、わからない。

万城目学さんは、自分はなんとなく文章を書くのが得意っぽくて、小説となるとそりゃちょっと勝手がわからなかったところもあるけど、でもなんか書けました。みたいな感じだった。それはわかる。

で、まずこういう話を書きました。これがわからない。どういう話を書こうかな〜はないの?評価を得るために書く内容を変えたみたいなくだりはあったが、評価を気にしなければとりあえずお話自体は思いつくということだ。なんで?

小説家とか何らかの表現をしているひとは(万城目学さんは特にそれが顕著だけど)、観察をしているらしい。よく言う、人間観察とか、ほかのひとの生活を想像してみるみたいな。

私はそれが全然できない気がする。想像力がない。たぶんそれで人に迷惑をかける(傷つけることを言ったり)ようなことも多々あった、というか今もあると思うくらい想像力がない。

想像というか学んでいるかもしれない。一般的にこういうことを言うとこう思う人がいる←自分もそうなる可能性がある←自分もそうなったことがある、だからこうしようみたいな、経験からしかなにも生まれない。自分ありきですべて世界が動いている。

小説のストーリーだって元はそうなのかもしれない。自分の大学生活と、それからどこかで読んだドラゴンの話と、目の前のサッカーの試合と、いろいろ混ぜたら、つまり経験知識から生み出しているんですよってことなのか?

でもなんでそこが大学生活だったの?サッカーじゃなくて野球じゃないの?とか思っちゃうな。そういうとこはなんとなくです、なのかな。もし明確にその経験を材料として選び出す方法があるなら知りたい。

あとがきで「べらぼうくん」というタイトルになった理由が書かれていたが、そこだけよくわかんなかったな。これはまた考えてみようと思う。宿題。

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