翻訳記事:周通のニュージーランド挑戦

MF周通(ZhouTong)が、クラブワールドカップ(以下CWC)でお馴染みのニュージーランド・オークランドシティに加入。1990年生まれの33歳、171CMと中国では小柄で主に左MFを務めるドリブラー。大連、天津、武漢卓爾へて、21年から天津津門虎で30試合3得点。代表歴もなく昨年は半分の14試合2得点、キャリアの晩年迎えつつある選手が、しかもニュージーランドへ移籍したのは意外だった。

鳳凰網の元記事↓

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オークランドシティオフィシャルより

33歳の周通が、コロナ渦の3年経てニュージーランドへの移籍を決意し、オークランド・シティに加入した。。これは一つの逃避であると同時に、挑戦でもある。これは珍しい形の海外移籍で、多くの【村民】の期待を背負う訳でなく、あくまで彼自身の為の移籍だ。
(*注 武磊のスペイン移籍時【村民の希望】という表現が多様され、それと対比する意味で用いられたと思われる)

以下は鳳凰網による周通へのインタビュー

 どのようにプロリーグからセミプロリーグへの移籍を表せばいいだろう?または「世界第六リーグ」から「オセアニアNo.1リーグ」とでも言うべきだろうか?
 私の頭に最初に浮かぶ風景は、一家3人が南太平洋で除夕夜(春節前日)を迎え、我々はスーツケースに座りながら餃子を食べる風景だ。その時私は中国から遠く、むしろ月に近いと感じるかもしれない。私は海にいるわけでないが、ニュージーランドは大きな船のような感覚がある。

コーチと

 私たちは10日余り現地の民宿に泊まったが、その後他の客に予約されてしまい、現地の華人から家を借りた。より正確に言えば競り落とした。恐らく大家は遠いところから来た我々を優先してくれたのだろう。
 除夕の前日に引っ越した。——机も椅子もネットも何もない。まずスーパーで買い物をした。他の家具は春節後にゆっくり準備する。除夕の午前中スーパーで餃子の皮と餡を買い、自分で餃子を作った(注:中国人は春節に餃子を食べる習慣がある)だけど経験不足で鍋を買い忘れたため、餃子を蒸した。何もないリビングで、一家はスーツケースで年夜飯(注:年越しの食事)を取った。
 前途多難と言いたいわけではなく、新しい体験の美しい始まりだ。
 当然、誰もが夢見るような煌びやかな海外移籍ではないことは認める。ニュージーランドはそこまで注目される舞台じゃないし。私が子供のころ夢見ていたのとも違う。
 私が8歳の時、テレビでマイケル・オーウェンの1998W杯での活躍を見て刺激された。父は私にイングランド代表のユニフォームを買ってくれた、勿論偽物だけど、とても着心地が良かった。当時イングランドがどこかも知らなかったが、1つのユニフォームから世界への想像を膨らませた。努力してオーウェンのような大きな舞台で活躍したいと思った。
 もう少し大きくなってから、ACミランとシェフチェンコが好きになった。だから私のQQのIDは“核弹头(注:核弾頭、シェフチェンコの愛称)”だ。
欧州サッカーの雰囲気や情景にあこがれつつも、当然現実との差は大きい。それは私とシェフチェンコとの差のように。

大連時代

 2010年、周通は大連阿爾濱(注:現大連人)でデビューし、18試合2得点。中乙(注:3部相当)優勝を経験した。

 11歳の年に故郷の山東省淄博を離れ北京国安の下部組織に入った。数年後3軍→2軍に昇格できず国安から淘汰された。多くの原因があり、能力もだろうし他にも理由はあったかもしれない。その後河北で中乙リーグに参戦。全運会(注:中国版国体のような省別対抗戦)が目的だったが、呉曦(注:WuXi/現中国代表主将)ら友人と知り合った。その後大連阿爾濱で中乙から中甲中超と昇格していった。

 若いころ海外移籍を考えたことはなく、国内のクラブでポジションを得るだけで精一杯だった。1度だけ、大連阿爾濱で中甲(注:2部相当)優勝後、我々は欧州でキャンプしていた時。ある代理人が私のビデオが欲しいと言ってきた、欧州のクラブに連絡してみると。私は半信半疑でクラブの分析スタッフにDVDを貰ったが、私個人のプレー切り取りはやってくれなかったのでそのまま渡した。当時は分からなかったが、代理人が聞いたのは可能性を探るだけであり、試合のDVDを丸々見る人はいない。

 この10年、大連、武漢、天津と渡り歩いた。他の多くの中国人選手同様、私のキャリアは強豪と呼べないクラブでスタメンと控えの間を行き来していた。でも私は諦めることなく努力を続け、金を稼ぎ家族を養った、また夢を叶えるために。3年のコロナ渦を経て33歳になり、1つの偶然が私に今が決断の時だと意識させた。

家族のために
 過去3年、選手はリーグ戦開催地に缶詰めになり家庭を顧みるのが難しかった。昨年後半、嫁がニュージーランドで勉強したいと決意したことで私はニュージーランドでプレイすることを考え始めた。嫁だけ行かせるわけにはいかず、子供含め一家三人は離れられない。丁度嫁の学校があるオークランドは外国人枠にあまりがあり、友達が連絡してくれた。そして向こうの幹部と会うや否や、すぐにフリーでの加入が決まった。
 人によっては「これも海外移籍と呼べるのか?」と言う。私は欧州のプロチームに見初められた訳ではなくニュージーランドのセミプロチームだ。孫継海、武磊のような海外移籍ではない、でもサッカーはそんな狭いものではない。ここ数日チームでのトレーニングは強度もあるし、チームメイトはジンバブエ、南アフリカ、アルゼンチンから来ているがそれぞれの夢がある。
 ある日友達が、世界のクラブランキングで「セミプロ」オークランドシティの順位は上海海港より100位以上高いと教えてくれた。別に俺と関係ないよと思ったが、オークランドシティの主席は「ニュージーランド人はラグビーとクリケットばかり注目し、あまりサッカーを見ない。周通よ君の力でより多くの子供たちを注目させてくれ」と言った。望むところだ。

 クラブワールドカップ(CWC)でプレイしたいという考えがあるのは認める。オークランドシティはオセアニア最強チームだ(編者注:ニュージーランドのウェリントンフェニックスはプロチームで、AFCのオーストラリアリーグに参加しており、オセアニアOFCの試合には参加できない)CWC参加8回はレアルマドリードやバルセロナよりも多い。今年もOFCチャンピォンズリーグで優勝すれば年末のCWCに参加できる。

你们会笑话我“投机取巧”不?没关系,我现在感觉很好,正如来的第一天。我们住进民宿恰好是个周末,第二天早上我下楼给孩子买早餐,但餐饮店都关着门,只有一家餐厅对自己酒店客人营业,不对外。我问服务生,能不能把牛奶面包卖给我。服务生是个白人小姑娘,她看了我一眼,问我谁要吃,我说我儿子饿了。她没有迟疑,给了我一个餐盒,让我自己装面包。我说多少钱,她说她们按规定是不能售卖店里食物的,所以只能送给我。

现在,我每天从家里开车去训练场的路上,能感受到南太平洋的海风,能看到开阔的天空。我们的主场Kiwitea Street容量不大,1000名观众也不见得能坐满,但想到马上能在这个地方踢球,一年有40场比赛等着我,这个“世界尽头”也不错。回头,我打算给那位送我面包的小姑娘送球票,万一她感兴趣呢。

其实,与其说我在这个年纪逃离了中国足球,不如说我找到一个新起点。我带着我通过中国足球产生的对世事的理解来到了这里,我将继续了解更多。据说,奥克兰是世界上帆船最多的城市,所以我为什么不能在这里再起航。

夢は小さくとも、それは太平洋より広い。(梦想再小,也比太平洋辽阔)

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とまあ周通個人的事情もあっての移籍となったが、ニュージーランドと中国は案外縁がある。

まず3月下旬に中国A代表とU23代表はニュージーランド遠征し、同国代表と対戦する。ゼロコロナ政策の影響で親善試合でアウェイ遠征は2018年以来

A代表の対戦は中国側から見て2勝5分6敗。特に1982年スペインW杯アジア・オセアニア予選プレイオフで1-2で敗れた試合。2008北京五輪で10人の相手に終了間際何とか追いついて1-1、、あまりいい記憶がないw

因みにニュージーランドでは過去に4人の中国人選手がプレイ経験あり。

3/11のOFCチャンピオンズリーグ予選、ウェリントンオリンピック戦で先発出場しデビュー。60分に交代


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