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翻訳 インドネシア代表の躍進・帰化政策について

■インドネシア代表の躍進・帰化政策について


インドネシアといえばオランダ領東インド時代にはW杯に出場しているが、その後長く低迷。

2010年代には内紛で国際試合から追放される暗黒期を過ごした。

そんな同国が今年に入り、W杯予選で東南アジア最強のベトナムを圧倒し連勝で3次予選進出濃厚に。そして先のU23アジアカップでベスト4進出するなど「アジアで最も旬な国」になっている。

その背景として、多くの媒体等で報じられるように、旧宗主国オランダ中心とした「帰化選手」の効果があるのは否めない。

https://note.com/yeehope87/n/ne30e2bba6fa9?magazine_key=m37b0422a3990

中国版SNS【微博(Weibo)】で、中国系選手(華僑・華人)中心に投稿しているアカウント「Jallo_Tang」氏がインドネシアについて投稿した記事があったので翻訳してご紹介したい。



原文は下記リンクより

https://weibo.com/ttarticle/p/show?id=2309405038612948320351


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(以下翻訳)



・血縁の力:インドネシアサッカー “強豪への道”

4か月前のカタール・アジアカップにおいて、インドネシア代表は4戦3敗の成績でベスト16敗退で終わった。しかしその僅か2か月後の間に、同国A代表はW杯予選でベトナムに連勝。U23代表はU23アジアカップでオーストラリア、ヨルダン、韓国を連破した。

​・植民と移民:歴史と文化の“恵み”

インドネシアサッカーの発展の道は長い。起点は高く、インドネシア領東インド時代に、極東大会、そして第1回W杯に出場している。当時既に代表チームには多くのルーツを持つ選手がおり、現地人以外に、中国系やオランダ系がいた。
(訳者注、参加したのは第一回でなく第三回の1938年大会

1596年オランダ人ホフマンの船隊がジャワ島に着いてから今まで400年、オランダに住むインドネシア人は170万人以上(インドネシアの血があるオランダ人を含めばもっと多いだろう)

オランダ全土の移民総数の40%近くを占め、彼らは各方面でオランダ社会に融合。サッカーでもファンペルシー、ファンブロンクホルスト、マカーイ、デヨングなどの大物選手がインドネシアの血を引いている。

オランダの2~4部リーグではより多くのインドネシア系選手がおり、彼らが後のインドネシアサッカー躍進の礎となっている。

こうした植民地であったことによる“恵み”以外に、インドネシア人は独立後積極的に国外へ移民し、これがサッカー界における帰化可能な人口を増やした。

インドネシア文化にはメランタウ(Merantau)文化というのがある、現地語で「流浪、長い道のり」の意味、遠い国外に渡り,金や知識や経験を蓄えることだ。

これにより、欧米の先進国はインドネシア人たちの主要な目的地となり、ナインゴラン(元ベルギー代表)などのようなインドネシア系のスター誕生につながった。

他に面白いのは、スペイン年代別代表歴あるジョルディ・アマト(Jordi Amat/ジョホール所属・既に帰化しインドネシア代表入り)は地方の王族の血を引いている。彼の祖母はシタロ諸島の王族出身、17代王の親族。アマトは2022年に王族の管理機構から、“王子”の称号を授かっている。

多くの国外移民が基礎となっているが、歴史上の偶然もより一層彼らの子孫のサッカーへの関与を強めている。この点はタイやフィリピンなどの代表チームでも表れている。

・帰化:長い鍛錬の道

東南アジアの中でインドネシアは早い段階から「帰化」に取組み始めている。

2000年にオランダに住むEka TanjungがSepakbolandaというチームを組織し、インドネシア系のオランダ人選手を探し始めた。様々な困難や問題があり、最終的には多くの選手を発見したが、一人もインドネシア代表に加わるに至らなかった。

2010年、当時のインドネシアサッカー協会主席ヌルディン・ハリドの推進の下で、元ウルグアイU20代表のクリスティアン・ゴンザレス(Christian Gonzales)が帰化してムスタファ・ハビビ(Mustafa Habibi)となり、インドネシア代表として東南アジア王者を争うスズキカップに参戦。彼がインドネシア代表における初の「帰化」選手の例だ。注目は、彼はインドネシアとの血縁関係はない。帰化前既に同国で8年間プレイしており、帰化のために元のウルグアイ国籍を放棄している。

この点で現在の血縁関係ある帰化選手とは明らかに異なる。(彼らはオランダ国籍をキープ

(訳者注:クリスティアン・コンザレス(ムスタファ・ハビビ)76年ウルグアイ・モンテビデオ出身。03年にインドネシアに渡り、同国リーグで通算249得点を記録。10年~15年までインドネシア代表32試合13得点を記録)


筆者(注:Jallo_Tang)の記憶では、2010年前後に「帰化選手」の概念は東南アジアや中国では未だ「裏道」の概念でそこまで注目されなかった。

インドネシア以外にも、ベトナムも海外にいるベトナム系選手発掘の動きを始め、スウェーデン、ノルウェーなどで選手を見つけた。しかし同国の経済発展や、国籍法の制限、考え方の違いでベトナムの帰化は進んでいない。

(注:血縁関係ある東欧出身のGK2人が代表入りしているが、アフリカや南米出身の帰化選手のベトナム代表入りは実現していない)

ベトナム、タイ、マレーシアといった国々は近年漸く「血縁関係ある帰化」に取組み始め、新しい発展の道を歩んでいる。


東南アジアの血縁帰化のトップランナーとして、インドネシアはウルグアイ人に留まらず、2014年のスズキカップで4人の帰化選手を招集。

前述のゴンザレスに加えて、ヴィクトル・イグボネフォ(Victor Igbonefo/ナイジェリア出身)、ラファエル・マイティモ(Raphael Maitimo/元オランダU17代表)、セルジオ・ファンダイク(Sergio Van Dijk/オランダ出身インドネシア3世) マイティモ、ファンダイクは血縁関係がある。

ただ悲しいことに2015年、インドネシア政府によるサッカー協会やリーグへの干渉を理由に、FIFAの国際試合禁止令を食らってしまい、帰化も一時ストップした。この件が「インドネシアは帰化してもあまり効果なかった」イメージを植え付けている。


マィティモ
ファンダイク
イグボネフォ

5年間、インドネシアは発展のチャンスを失い、カタール人がアジア制覇するのを見つめていた。(注:2019年アジアカップでカタールが初優勝。ロシアW杯予選を追放されたインドネシアは参加資格がなかった)

2019年の年末、インドネシア協会は代表監督に韓国人・申台龍(シン・テヨン)の就任を発表、そしてここからまた帰化の道が始まった。

会長と監督

2022 年スズキカップ、インドネシアは3人の帰化選手が参戦。うちジョディ・アマトだけが血縁関係あり。

2024年アジアカップ、インドネシアは7人の帰化選手が参戦。その後人数は10人に増え、既に通算30人以上の帰化選手がインドネシア代表としてプレイしている。


・大躍進:“二つの100”の目標は以下に実現するのか

インドネシアの帰化の背後には一人の大物がいる。元インテル・ミラノ会長のエリック・トヒル(Eric Thohir)だ。

彼は2023年にインドネシアサッカー協会会長に就任後、FIFAへの報告書で、二つの100の目標を明記した。世界ランク100位以内に入ること、少なくとも154名のA代表の能力ある選手を擁することだ。

トヒルが来て僅か1年、同国の世界ランクは157位→142位に上昇。アジアの強豪国ともよい勝負ができているのは驚くべきことだ。

トヒルは「帰化選手」を以て、インドネシアサッカーに劇薬を与えた。帰化選手の数を増やすだけでなく、彼らがインドネシア国籍取得するのをより容易&早くした、

これは面白い点、帰化選手獲得のポイントは、選手自身の力に加えて、本人が国籍を取得できるかが大事。これは中国が帰化政策において遭遇した最大の困難でもある。


歴史的な影響で、中国など東アジア、東南アジアの大半の国は「単一国籍」。インドネシアも含み本来二重国籍を容認していない

しかし2006年インドネシア政府は児童の二重国籍保有を容認。21歳になれば1つ選択せねばならない。

この変化がインドネシアサッカー協会にチャンスを与えた。民間の力で数百名の欧州のユースチームにいるインドネシア系選手を発掘し、パスポート発行を進めた。

これで彼らの年代別インドネシア代表入りを推し進め、中には欧州5大リーグの強豪チームに所属する選手もいた。


A代表では最近帰化したイゼス(Jay Idzes/ヴェネツィア)、フブナー (Justin Hubner/セレッソ大阪)、ジョー・ア・オン(Nathan Tjoe-A-On/スウォンジー)、パティナマ(Shayne Pattynama/オーペン)、クロク(Mark Klok/ペルシブ)、ハイェ(Thom Haye/ヘーレンフェーン)イェナー(Ivar Jenner/ユトレヒト)、ストライク(Rafael Struick/デンハーグ)、オラトマンゲン(Ragnar Oratmangoen/フローニンゲン)等だ。彼らがインドネシアパスポートを取得する時間とプロセスは充分に簡単だった。


あるインドネシアの高級閣僚の4月30日の公式談話によれば、政府は海外に居住する高レベルな技術人員へ二重国籍を認める考えがあると表明。しかしこれはまだ正式に発効はしていない。

だが、FIFAが今年3月13日にインドネシア協会へ送った、ジョー・ア・オンの代表資格に関する文書の中で、彼が同時にインドネシア/オランダの二重国籍を有しているとの記載がある。

これはトヒルの仕事の一部に過ぎない、彼がインドネシア代表の帰化のためにこれだけのサポートを得られたのは、インドネシア政府が

まだ正式に発効していない政策を、先んじてまず彼らサッカー界の若者たちに適応させていると見られている。イゼス23歳、ジョー・ア・オン22歳、ストライク21歳、イェナー20歳。インドネシア協会が提示した充分な条件が、彼ら若者を振り向かせた。

・共鳴:これは“人民の戦い”だ

インドネシアの急速な発展は、協会の指示や仕事だけでなく、これだけ多くの帰化選手をリストアップしたファンの貢献も大きい。

東南アジア全土でこうした自国のルーツ持つ選手を探す動きはある、しかし数量やメディアへの影響力はインドネシアのファンが抜けている。

「Footballtalentnesia」はインドネシアのファンが国外メディアで運営する、15万近いフォロワーを有す。運営者は協会内部の人間でなく、3人の大学生だ。しかしこれまで500人以上の国外にいるインドネシア系選手を発掘した。うち50-60人はインドネシア代表入りする実力があり、これがトヒルの「154人」のデータの基礎かもしれない。

彼らの仕事は協会に大いに役立ち、トヒルは実際の行動でこの3人の若者の熱意と貢献に報いた。インドネシアサッカーの発展は、特定の個人・組織・クラブやグループの責任でなく、ファン全体の使命である。

「もし未発見のインドネシア系選手のSNSアカウントを投稿すれば、コメント欄はインドネシア国旗とファンたちの歓迎コメントで埋め尽くされるだろう」と語る。​​​

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私自身もNoteで何度か中国やアジア各国の帰化や二重国籍選手について取り上げているが、

全体的傾向として「血縁関係ないベテラン」より「血縁関係ある若い選手」の方がより効果的である。

インドネシアも、2010年代のゴンザレスらのような30代かそれに近い選手の帰化はそれほど即効性は無かった。

中国でも、ブラジル出身組よりも、結果的に3世の蒋光太や2世の李可が最も出ている。

選手個々人の心意気とかそういうのでなく、どんな凄い選手でも「5年ルール」へて30代、30代半ばになればピークを過ぎてしまうのは自明の理

インドネシアの場合は、元々人口が多く、移民が多く、人的資源のポテンシャルがあったこと

+前述とおりトヒルの資金力&政府の支援が大きかった。

例えばハイェ、オラトマンゲンは3月のW杯予選ベトナム戦数日前に国籍取得し、数日後の試合に出ている。凄まじいスピード感。

国籍法、移民、これはサッカーだけの問題ではない。



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