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泣くということ

この一年ほど、よく泣いている。大人がこんなに泣くのかというほど泣いてしまってる。もちろん心が成長しきれていないからなのだけど、涙の底ってどれだけ深いのだろうと思うほど、泣いている時はあとからあとから涙にまみれるように、そうするしかできない自分に苦しんでいる。
 寂しくて、哀しくて泣くことも辛いけれど、やっぱり苦しくて泣く時の苦しさはとても辛い。心を深く深く疲弊させるのは、苦しさからくる涙だ。涙によって楽になることは多いけれど、苦しくて泣いている時は全然楽になんかならなくて、のたうち回る自分の姿にさえ傷ついてしまう。何か気を紛らそうとするのだけど、本当にそう思っているのなら泣かないのかも知れない。苦しくなることがわかっているのに、心は泣くことを求めているのだ。だから果てしなく泣き止めなくなっていく。
 すぐに言葉にすることを迷ったけれど、言葉にして昨日の苦しい涙を刻みたいと思った。こんなにも涙が深く心を締めつけたのは最近では記憶にない。ひと月前にも二日間泣いていたことがあったけど、あの時はそれが楽になれる涙だと、泣きながら思えていた気がする。自分の弱さに直面すると、それしか見えなくなる弱さが自分にはあるのだけど、昨日はそれをどうしたらよいかについて考えることを、手放すことができなかった。足下が崩れる音を聞きながら何もしないなんて出来なくて、それで涙に頼ったのもあるかもしれない。今はそう思う。一時的な代わりを求めて、闇を彷徨うようなことを思ったりやってみようとさえしていた。
 ほとんど眠ることができずに迎えた今朝は、なぜか朝の光がとても心に差し込むように美しく尊いもののように感じられた。でもそのことを自分は恥じなくてはならないような気持ちになって、それでまた深く心が苦しんだ。何もかもがまだ涙の余波のなかにあるようで、昨日の刺すような痛みは時とともに治まってきたが、また再燃することが今は怖い。心って泣くことで強くなれるような気がしていたけど、何回泣いても弱いままだった。どこまでこの自分を許して、自分で自分を護って応援していけるだろう、そんなことを今日は考えていた。自分を護りたくなった。不器用に闘って疲弊した愚かな自分を、自分で責めたらだめだと思った。愚かさを恥ずかしいことのように思ってしまう。でもそれは誰に対してなのか。自分を恥じることを、これ以上しなくて良い。昨日の涙を経て感じたことは、自分への眼差しをもう一度問うことだった。泣いてもいい、恥じてもいい。間違えることもある。同じ苦しみを生きるひとがどこかにいる。風は意味があってもなくても気持ちいい。
 とりあえず夏が終わりゆく今、自分の心に寄り添って、何が見えてくるかを静かに待ちたい。それは波のように退いたり揺らいだりする、煌めいて綺麗なものであったら嬉しいけど、想像しないようなものが見えてきたら、それも受け止めたい。苦しい涙を流した後のこの目で。
 

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