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手直し前の卒業論文④

「少女マンガの面白さとは何か?
 〜マンガが文明になりえる時代の一考察〜」

(注)今回の更新分はまさに書きかけになっています。

第三章 他者にとっては面白いマンガとその分類論

 第二章では私が面白いと思ったマンガを語ったが、それだけでは片手落ちなので今まで読んでこなかった作品や、倦厭してきた作品について第三章では語りたいと思う。他者にとっては面白いマンガを論じる前に、私がどう言うマンガを面白くないと感じるのかを考えたい。改めて面白くない要素が何かを考えてみると5つに分類できた。

私にとって面白くないマンガの条件
①ストーリー性が無い
②絵柄が好みではない
 リアルな書き込みが激しいマンガや所謂青年誌系統の雑な絵を好まない
③セオリー通りの展開を嫌な形で裏切る。
④伏線を無視して大風呂敷を開いているようなストーリーに入り込めない作品
⑤一冊丸ごと戦闘や試合の描写が続いて飽きてしまう作品
 
 中でも好き嫌いの判断で比重が高いのは②の絵柄である。現在はマンガの冊数も多いため、瞬時に自分の読みたい作品を判別するためには表紙などを見てジャケ買いをするしかないからだ。同じような理由で同人出身の作家や青年誌でメインに活動している作家、レディースコミック誌で活躍している作家のマンガはあまり手に取らなかった。

(要追記)

第四章 SLAM DUNKとNANA
  現在は猫も杓子もマルチメディア戦略とでも言うよに常にマンガが何かとコラボしている気がする。マルチメディア戦略の始まりは、大体1980年頃である。最初はマンガをアニメ化した事から始まったが、現在はマンガとシミュレーションゲームの同時連載、アクションゲーム化、ドラマ化は当然になっている。またゲーム化には至らなくてもファンブックやOVA、ドラマCDなどがよく作られているイメージがある。
 この章ではメガヒットした2作品でマルチメディア戦略への考え方が対称的だった「SLAM DUNK」と「NANA」を比較してマルチメディア戦略を考えたい。「SLAM DUNK」は少女マンガの枠は収まらないが許していただきたい。

SLAM  DUNKは私が小学校高学年の頃から中学生の間くらいに大流行したバスケマンガだ。私はマンガだけでなくアニメも毎週見ていたが、作者の井上雄彦にとってマルチメディア戦略とは違和感のあるものだったと言う。下記はSWITCH2と言う雑誌に掲載されていたインタビューを引用したものである。

SWITCH2 P75〜P76
ー井上さんはご自分のマンガ家のキャリアの早いうちから自分の会社を設立して自身のマンガの権利を取得し、ホームページを開設し、という事をされてきていますよね。

井上 最初はファンとの交流までは考えてなかったんですね。何で自分で会社を作って自分の絵を自分でコントロールしたいと思ったかというと、やはり「スラムダンク」をメディアミックス的にいろんなところで使われて、様々なものが「スラムダンク」という名の下で出てくるようになったからなんですね。もちろんそれを許可したのは自分であり、誰かを責めたいわけではなく、ただ自分が無知だっただけなんですが。花道がいっぱいいるけど、そのどれも「自分が書いたキャラクターとは別物だ」と強く感じていたんです。自分が創造したものを使ってこういうことを次々やられるのは「ちょっとかなわん」と思って。それで、可能な限り全て自分でコントロールできるようにしたかったから、会社を作ったわけです。インターネットを使ったのは、情報をこちらの管理の下で好きな時に流せるから。発信と窓口です。そうやっていたら、「ああ、これはファンとの直接的なコミュニケーションにもなるんだな」って気づいた。それで、だんだん、そういうことの重要性にも目覚めていったという感じですよ。

それの集大成が昨年の冬行われたイベントである。井上雄彦は新聞六紙に全面広告を一斉掲載し、廃校が決まった学校の23部屋の黒板に、あれから10日後のスラムダンクのメンバーたちを描いた。たった三日間の濃密な時間の再現を。

 私がSLAM  DUNKを読んでいた当時は連載終了が悲しくてまたいつでも再開してほしいとすら思っていたが、今思うと最高の形でエンディングを迎えた作品だったと思う。ややもすれば編集部の方針などでダラダラ引き伸ばされがちなマンガも多い中でその潔さは爽快ですらある。それと同時に私にとってSLAM  DUNKは大切な思い出でもある。同じような思いはSWITCH2に掲載されていたイベント参加者のコメントからも感じられた。「諦めたらそれで終わりなんです。」と言う台詞の重さ。決して台詞の多いマンガではないが、主人公の花道や周囲のライバルの行動が台詞のリアリティーを倍増させる。イベントが遠方だったせいで行くことは叶わなかったが、自分と同じ気持ちでいる読者が多いのだと雑誌を見て感動を覚えた。あくまでマンガと私という一対一の関係の中で芽生えた気持ちを誰かと共有できると言うのは素敵なことだなと感じた。
 おそらく井上雄彦にとっては一度は自分の手を離れてしまった「SLAM  DUNK」を再び自分の中に納得する形で取り戻す作業が今回のイベントだったのではないかと思う。しかしそれと同時にマンガが優れたコミュニケーションツールであることも教えてくれる貴重なイベントであった。

 一方で2006年夏に公開された映画版NANAは読者にとってはもちろん、作者にとっても満足のいく出来だったようだ。このマンガで重要な要素は他でもないキャラクターである。どこにでもいそうだがちょっとだけ尻軽なところがあるハチと、自分の夢に邁進していてとてもかっこいいけど脆さも抱えているナナと、彼らを取り巻く2つのバンドのメンバー達。原作者の矢沢あいは特にブラストのヤスには最後までこだわったと言う。また作者自ら劇中でブラストが歌う曲の歌詞を書き下ろしている。その成果は映画が大好評を博し、早々に続編が決定したことでも明らかだろう。
 少数意見としては、ハチはあんなに泥臭くないし恋をしたらすぐに体を許してしまう軽さを出せばもっとよかったのに。とか、レイラはもっと綺麗だとか、イメージに合わないキャラもいると言う批判も耳にする。しかし最重要キャラクターであるナナを中島美嘉がイメージ通りに演じきり、歌もうまかったのでそんな批判などは吹き飛ばしてしまったように思える。それ以外の成功の要因としては、マンガの小道具やファッション、行きつけのお店が実在していることも挙げられる。リアルにあるものをマンガに落とし込み、再度映画としてリアルに戻すと言う作業を行なっているのでこだわりを持って制作すればNANAん世界を再現することは可能だったのだろうと思う。浮気やどうしようもない別れなどの運命の翻弄される主人公や名脇役達の演技もさることながら、周りの小道具へのこだわりがあってこそ一層のリアリティーが生まれたのであろう。
 
 ここで話は少しずれるが、映画で言うとマンガ家は1人で全て映画を自主制作している映画監督に近いのではないかと私は思う。SLAM  DUNKのマルチメディア化への不信感も、NANAの商業的大成功もマンガを描くと言う作業が映画やドラマ作りにも通ずるものがあるから起こったのではないかと思うのだ。
 「マンガはコマと台詞から作られている」とは夏目房之介の言葉だが、全くその通りであると思う。コマと台詞こそがマンガと読者の濃密な関係性を作り出すシステムの根幹であるからだ。
 マンガを映画制作に置き換えると構造が分かりやすいので、ちょっと置き換えてみようと思う。ストーリーテリングは脚本家の仕事である。コマ割りやページをめくった先のコマの配置、台詞の配置は読者の目の動きをコントロールすると同時に独特な間をもたらしている。映画で言うとおそらくカメラマンの役割を果たしているだろう。キャラクターの風貌やモノローグは役者の仕事だ。キャラクターとイメージがずれていないか、主人公の内面をいかにして表現するかに役者の腕が見て取れる。キャラクターの衣装をセレクトするのは衣装担当、周囲のセットを用意するのは大道具や小道具担当の仕事になる。トーンはと言うとマンガ家の柳原望が「まるいち的風景②」の後書きで書いているのだが、同業の友人達はトーンを色として使用する人、ライティングとして使用する人、音として使用する人など様々な使い方をしているようだが、それぞれマンガでしか表現できないことを特にコマの中で表現しているようだ。 

 近年進むマルチメディア戦略はアニメやドラマや映画から原作マンガに触れた人はあまり違和感を感じないようだ。しかし逆からアプローチした人は時にとんでもない違和感を抱くこともある。特にアニメの場合は、アニメーション独特の線の太さになることで絵がどこか画一的になってしまうことやフルカラーであること、声優のイメージの違いなどが原因として挙げられるだろう。SLAM DUNKもアニメではキャラクターの作画やコマ割り独特のカメラワークなどがうまく機能していなかったように思えた。実写の場合は役者のイメージの違いや全体的な雰囲気の違い、エピソードの簡略化などが挙げられるだろう。本題に戻るが、SLAM  DUNKの作者がマルチメディア戦略に違和感を持ったのは、コマ割りや描線と言ったマンガ特有の表現で表していた緊迫感やキャラクターの魅力がアニメ化やキャラクターの一人歩きによって消えてしまったように感じたからではないだろうか?
 逆にNANAの場合はキャラクターと言う重要なファクターを壊さないようじっくりとキャストを練り、マンガ全体の雰囲気を壊さないよう衣装や小道具、大道具やセットにまで細やかに気を使ったお陰で大成功を収めたのではなかろうか?何にせよ流行っているからと言って安易にマルチメディア戦略を行う風潮はあまり好ましくはないなと個人的には思う。

終章 ユニセックス化と細分化が進むマンガ業界

 現在はファッションにしても行動にしてもユニセックス化と趣味の細分化が加速している。同時に性の枠組みもどんどん緩やかになっている気がする。現実を投影することで発展していくマンガというコンテンツは嗜好の多様化や世代別のマンガ需要という現実の変化に応じて敏感に反応するので、マンガも雑誌も次々発刊されどんどん細分化が進んでいる。増えすぎて埋もれてしまっている名作もあるが、マンガを楽しもうと思えばその日の気分に合わせて読むマンガをセレクトできる。実際少女マンガ家の少年誌や青年誌への進出も進んでいるし、女性読者自体も男性誌を読む人も多い。それこそ昔は男性の中での少女マンガのイメージはかまとと打った主人公の恋愛物語だったかもしれないが、今は少女マンガの感情の機微のリアルさに魅了される男性も多いようだ。
 また、マルチメディア戦略のおかげで今までは出会えなかったはずのマンガとの出会いの機会も増えてきている。例えばNANAの爆発的ヒットを支える一因となったのは、映画やテレビの宣伝を見た男性陣からの「このマンガは俺でも読みやすいし、面白い!」と言う反応だろう。女性の社会参加がもはや当たり前になった時代でも女性にしか分からないことは未だに存在しているし、その逆もまた然りである。しかし性別での感性のカテゴライズが無意味になりつつあるこの時代、マンガのユニセックス化と細分化はこれまで以上に進んでいくだろう。
 余談ではあるが、メジャー誌とマイナー誌、同人誌という教会自体も希薄になってきている現在だが、メジャー誌では掲載しにくいと思われる表現形式や世界観を持ったマンガが次々とマイナー誌で生まれ、とっつきやすい表現やヒット作などはメジャー雑誌にも組み込まれたり、アニメ化されて幅広い目線に触れる仕組みが構築されている。少女マンガの面白さが何かと言う問いに対してまだ明確な答えは出せないけれど、異なるマンガや社会の変化により変わりゆくであろうマンガの世界から今後も目が離せないと思う。

参考文献一覧
○書籍
大塚英志『「彼女たち」の連合赤軍ーサブカルチャーと戦後民主主義』文藝春秋(1996)
大塚英志『少女雑誌論』東京書籍(1991)
大塚英志『(まんが)の構造 ー商品・テキスト・現象』弓立社(2001)
大塚英志・ササキバラゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』講談社(2001)
長谷邦夫『漫画の構造学』インデックス出版(2000)
夏目房之介『夏目房之介の漫画学 マンガでマンガを読む』筑摩書房(1992)
夏目房之介『マンガは何故面白いのか その表現と文法』NHKライブラリー(1997)
藤本由香里『私の居場所はどこにあるの?少女マンガが映す心のかたち』学陽書房(1998)
米澤嘉博『戦後少女マンガ史』新評社(1980)

○雑誌
『AERA MOOK コミック学の味方』朝日新聞社(1997)
『imago 4月号 第6巻第4号 特集少女マンガ』青土社(1995)
『20世紀少女マンガ天国』エンタブレイン(2001)
『別冊太陽 子供の昭和史 少女マンガの世界I 昭和20年〜37年』平凡社(1991)
『別冊太陽 子供の昭和史 少女マンガの世界II 昭和38年〜64年』平凡社(1991)


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