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京都

5月1日、きょうは京都に行っていた。

まずは京都市内の中心部に向かうルートから外れて電車とバスを乗り継ぎ、洛外のお寺へ向かった。人里離れたそのお寺にわざわざやって来たのは、GW中祖母がそこでボランティアの観光ガイドをやっているからだった。
コロナが流行り出してから一度も会っていなかった祖母は嬉しそうに私を出迎えたあと、ボランティアスタッフらしく展示物の説明をしてくれて、最後は家のキッチンの壁を張り替えたからまた遊びにおいでと何度も繰り返しながら私を見送った。

お寺を出たあと地下鉄に乗って、三条京阪へ。駅から祇園方面に向かって南向きに歩く。ちょうど京都国際写真祭をやっていて、いくつか気になるギャラリーがあったのでぶらぶら歩きながら見物する。
大学時代何度も通った道。街の風景を楽しむ暇もなく、慌ただしく自転車で行き来した思い出ばかりが蘇る。とても濃密な時間だったと思うのに、どんなふうに日々を過ごしていたのか、今となってはほとんど覚えていない。

祇園白川あたりのギャラリーでガーナの作家の写真展を見て、そのあと木屋町通りを南下し、五条のギャラリーへ。以前から気になっていた写真家が香港の民主化デモを題材にした写真展をやっていた。
香港にはまだ行ったことがないけれど、とても心惹かれる。王家衛監督の映画作品が好きなのでその影響も多分にあると思う。2年ほど前に旅行する予定だったけれど、コロナの影響でキャンセルになった。写真のなかから、一度も行ったことのない香港の熱気と湿度を感じる。この風景はまだ残っているのだろうか。

ギャラリーで2017年の香港の街並みを写したパネルを無料で配布していたので、持ち帰ることにした。庶民的な食堂でくつろぐ中年男性を写した写真。私はこういう日常的な風景が好きだ。ぎりぎり片手で持てるぐらいの大きさのパネルを丸裸のまま小脇に抱え、ギャラリーを後にした。

五条のギャラリーからさらに南下し、京都駅へ。高校の友人が家庭の事情で東京に旅立つので八条口の改札からそれを見送る。高校時代何度も京都駅を一緒に行き来したその友人は、家庭を持ち、子どももできた。

友人らと別れたあとは大阪本面へ私鉄を乗り継いで、実家の最寄駅近くで父と弟と焼肉を食べる。2年前に弟と大喧嘩して実家を出てから、初めて3人で外食した。弟が3人で食事をしようと言ってくれたらしく、その気持ちがとても嬉しくてありがたかった。
家族と別れてスマホを確認すると、東京に住む大学時代の友人から久しぶりに連絡が来ていた。こういう不思議な偶然が、人生には何度となくあるものだ。

大阪から京都へ、京都から大阪へ。現在から過去へ、過去から現在へ。
高校時代から大学時代までの数年間何度も行き来したその街並みを、かつてそこで共に過ごした人たちのことを思い出しながら歩いた。その風景に、きょうギャラリーで見た写真のなかの風景がまた新しく上書きされる。知らない街の知らない誰かの悲しみ。紛争、貧困、日常の裂け目。
2009年、2012年、2017年、2022年。

どの日々も懐かしくて恋しいけれど、それはすべてが過去の思い出に変わったからかもしれない。
現在から見れば過去の日々は美しく見えるけれど、その時々の狭い人間関係のなかで身近な誰かをたまらなく鬱陶しく思ったり、その人の欠点をどうしようもなく許し難く思ったりもした。それでも時の流れのなかで誰かを許したり、誰かに許されたりもする。
できるなら、時間が許す前に自らそうする余裕を持ちたいものだ。

帰宅後、五条のギャラリーから持ち帰った大きなパネルをとりあえず冷蔵庫の上に置いたらいい感じになったので、この作品はこれからもここに飾ることに決めた。2017年、香港の食堂にいた彼は、数年後日本のアパートの冷蔵庫の上に自分の写真が飾られるとは夢にも思っていなかっただろう。
過去から現在へ、日常から日常へ。これも時間が作った不思議な結節点なのかもしれない。

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