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『鈴木家の嘘』|嘘なき自死遺族の物語

Amazonプライムで『鈴木家の嘘』という映画を見た。
引きこもりだった長男の浩一が自宅で自殺し、第一発見者となった母はショックで倒れてしまう。母は意識が戻ってからも浩一が亡くなったことを忘れてしまっていて、残された家族は浩一が引きこもりをやめてアルゼンチンで働いているととっさに嘘をついてしまうというストーリー。

予告編を見たらコミカルな雰囲気で、『グッバイ、レーニン!』みたいな感じかなぁと思いながら軽い気持ちで見てみたら全然違った。
映画のなかで自殺というテーマがただのセンセーショナルなエンタメ要素として消費されることなく、残された家族の細やかな感情がきちんと丁寧に描写されている。冒頭の5分ぐらいでこれは自死遺族の内面の葛藤をテーマにした映画なのだと気付いた。

特に妹の富美の心情描写がすごくリアルで、胸に響くものがあった。彼女も母と同じく浩一の自殺現場を目撃しているけれど、はじめはなかなか自分の感情を露わにできず、グリーフケア団体の語り合いの会に参加したりしながら、徐々に自分の感情と向き合うようになる。
私も一度自死遺族のつどいみたいなものに参加したことがあるけれど、そのときの雰囲気がそのまま生々しく描写されているようでびっくりしてしまった。富美や両親、遺族の人の発する言葉の一つ一つが胸に迫ってきて、コメディ要素も多い映画なのに最初から最後までずっと泣いてしまった。

自殺を題材にした小説や映画で、残された人の心情が描かれるとき、要素としてはその心情をとらえていても、細かいニュアンス的なところでズレを感じていまいち共感しきれないことがよくある。けれど、この映画にはそういう違和感が全くない。
映画を見終わった後に作品の背景を調べてみたら、監督が実際にお兄さんを自死で亡くしていて、そのことをテーマに撮った映画のようだった。そりゃそうだ、と妙に納得してしまった。

映画のなかでは浩一が自殺してそれを家族が目撃するというショッキングなシーンや、一歩間違えば不謹慎だと感じられるようなコミカルなシーンもたくさんある。
けれどそれらが物語の重要な要素としてきちんと成立しているのは、監督が自分自身の感情に向き合ってそれを映画のなかに落とし込んだからなのだとインタビューを読んで感じた。『鈴木家の嘘』というタイトルなのに、自殺というテーマに嘘偽りなく真っ直ぐ向き合っている。

家族が亡くなるという悲しみの極限状態にあっても、思わず笑ってしまうことは当たり前のようにある。監督がインタビューで語ってるように、悲しみの極限にあるからこそ真剣になりすぎて笑ってしまうというか。
私は元々かなりゲラなほうなので、祖父が亡くなったときにいきなりキリスト教の神父さんがお祈りをしに来て、兄と一緒にお葬式中に必死で笑いを堪えていたこともある。悲しいときにはずっと弱々しく悲しそうな姿をしていないといけないのかというとそうではなくて、どんなに悲しくても普通に笑うときもあるし、本当はそれが人間らしい姿なのだと思う。

この映画でそういうコミカルなシーンを描いていても不謹慎に思えないのは、その日常が浩一の死と地続きの場所にあることがきちんと伝わるからではないだろうか。
インタビューのなかで監督が「浩一の残像が頭の中に浮かぶような映画にしたかった」と語っているように、浩一が出てくるシーンはほとんどないのに、映画の中にはずっと浩一が存在している。
富美と父は母に嘘をつきながらも、浩一がなぜ死を選ばなければならなかったのかを自らに問い続ける。浩一を追い詰めたと自分を責める富美、少しでも生きていた頃の浩一のことが知りたいとソープランドに通い詰める父、直接語らなくても二人の頭の中にはいつも浩一の残像があることがよく分かる。

浩一が亡くなった日のことを「毎日思い出す」、「もう元には戻らない」と富美が語るシーンがあるけれど、映画のラストは希望を感じさせるようないいエンディングだった。
浩一の死を忘れたり乗り越えたりすることはできないけれど、その不在を抱えたまま家族は再生していく。

ショッキングなシーンも多いので人によっては無理して見ない方がいいと思うけれど、これほど自死遺族の心情を丁寧に描いた映画もなかなかないと思うので感想記事を書いてみた。
『スープとイデオロギー』、『沈没家族』に続いて『鈴木家の嘘』は今年見た家族映画のベスト3に入ると思う。

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