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対話その8|「自殺」を「自死」と呼ぶべきか

wish you were hereの対話その8。
今回は、同じ自死遺族の方の言葉をきっかけに、「自殺」という言葉をすべて「自死」に言い換えるべきかなのかということについて考えました。

*放送中に紹介した全国自死遺族総合支援センターの「自死・自殺の表現に関するガイドライン」についてはこちらのリンクを参照。

今回の出来事を通じてこのようなガイドラインがあることを初めて知りましたが、それだけ多くの人たちが「自殺」と「自死」の言い換えについて関心を、あるいは当事者としての問題意識を持って議論してきたのだなぁと感じました。それは字義上の意味を超えて自殺の問題を考えることであり、身近な人の自死をどう受け止めていくのかを考えることでもあると思います。

放送中には話せませんでしたが、自殺/自死の言い換えを巡ってもう一つ考えたことは、「自殺をタブーにしないってどういうことだろう?」ということです。
私は「自殺」という言葉をすべて「自死」と言い換えてしまうことによって、この問題そのものが覆い隠されてしまうのではないかと考えました。それは「自死」という言葉そのものが持つ響きやイメージに違和感があるということではなく、言い換えを進めること自体に自殺という問題から遠ざかろうとする意識が少なからず働いているように感じたからです。
「自殺」という言葉を使うことをやめてもっと柔らかな表現に言い換えたなら、自殺という問題はタブーではなくなるのでしょうか。誰もがそのことについて議論しやすくなるのでしょうか。

自殺をタブーにしないというのはどういうことだろう?

まずはじめに思い浮かぶのは、宗教や文化といった伝統が形作ってきた「自殺は罪である」というスティグマについてです。
時代とともにこういった考えは薄まってきていると思いますが、それでも自殺に対する忌避感というのは現代の日本で生きる私たちの意識にも潜在的に焼き付いているように思います。

放送中でも話した通り私は自殺を「やってはいけないこと」だと考えていますが、それはなぜかというと、そう考えなければ本当に死にたくなってしまうからです。
周りの人が悲しむからとか、生きていればいいこともあるとか、そういう言葉は「死にたい」という衝動の前ではまるで無価値になってしまうので(死にたがっている自分はすべての理屈を強引に論破してきます)、理由はないけど「ダメなものはダメ!」という言葉で自分をねじ伏せることにしています。

この「ダメなものはダメ!」は理屈を超えた宗教的な次元に支えられているように思います。
このことについては放送後の雑談のなかで話をして、もりもとくんがまた新たに自分の見解を個人のラジオで発信してくれていますのでよければ聞いてみてください。

自分が自殺することに対しては「ダメなものはダメ!」と諌めつつも、その一方で死にたい気持ちがある人の思いは否定せずに受け止めたいという思いもあります。それは自殺で亡くなった大切な人たちの最後の行為だけを取り上げて悪であると断罪したくないという思いとも重なります。

自死遺族の当事者として、そして自らも自殺未遂を体験した当事者として、素直な気持ちをnoteやラジオで発信できてそれに反応を返してくれる人がいることがとてもありがたく、また嬉しくもあります。
自分たちだけでなく、同じような思いを抱える人たちにとってもそういう場を作りたいので、興味を持ってくれた方はぜひコメントやレターで感想を送ってください。どんな意見でも歓迎です。

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