対話その6|ヤングケアラー問題、自死遺族の当事者性など
wish you were hereの対話その6。
久しぶりにもりもとくんと二人だけで収録しました。ヤングケアラー問題と自死遺族(特に幼少期に精神疾患を抱えた家族を亡くした人)の近さや、その当事者性について話しています。テーマが大きすぎて自分でも論点が整理できていないままごちゃごちゃ話してしまいちょっと反省しましたが、聞いてる人が外から議論に参加してくれたらそれはそれで面白いラジオになると思います。
ごちゃごちゃ考えたついでに、最近考えていたことが今回の対話ともリンクしたのでそれについて書こうと思います。
ヤングケアラー問題の中核は何か?を話している部分(14:26頃〜)で、家族のことにばかり関心が向いてしまうという話が出てきましたが、それについては自分も最近まで長らく葛藤を抱えていました。これは、「自死遺族としての自分」以外のアイデンティティ形成の問題と言い換えることもできるかもしれません(アイデンティティに関しては対話その2でも少し話しましたが)。
いまの仕事、この活動も含めてやりたいと思っていること、それらはすべて「自死遺族としての自分」というアイデンティティがなければ生まれなかったものです。けれど、20代前半の頃にはそれが呪縛のようにも思えてたまらなく嫌だった時期があります。
もしも自分が自死遺族じゃなかったら、いわゆる「普通」の家庭で育っていたら、自分は何を選択していたのか。本来の自分とは、自分らしさとはなんだろう。大学を卒業して社会に出たとき、私はそれを探究するために今とは真逆の方向に歩み出しました。
けれど、「自死遺族としての自分」を抜きにして将来の道を考えることが私にはどうしても難しかったです。なんだかいつもやりたくないことをやらされているような感じがして、窮屈で、先が見えなくて苦しかったです。
いまは逆向きに突き進んできたその道をどんどん引き返して、再び「自死遺族としての自分」のアイデンティティを取り戻すための作業をしているような気がします。それには痛みを伴うこともありますが、とても居心地がよく、本来の自分に戻っていくような感覚もあります。
おそらくこの居心地のよさは、真逆の道を進まなければ発見できなかった感覚だと思います。長い旅に出たあと、「やっぱり家が一番」と思う感覚に似ているかもしれません。
「自死遺族としての自分」を抜きにした本来の自分、ーー何物にも縛られない自由な自分というのはそもそもが机上の空論で、それを目指そうとするのはかえって偽りの自分を作り上げることなのだと最近になって気づきました。
いわゆる「普通」の家庭で育った人だとしても、私たちは生まれ落ちたそのときからすでに歴史、国籍、家族といったあらゆるものに束縛された不自由な存在です(西田幾多郎はこれを「歴史的身体」ということばで表現しましたが)。
以前の私はそれを「呪縛」だと捉えていましたが、今では「受難」として捉えています。そして、私にだけ与えられたこの受難を引き受けながら生きること、それこそが自分らしさだと思っています。
家族のために過剰に自己犠牲的になってしまったり、逆に家族と自分とを完全に切り離してしまったりすることは、どちらも恐らく健全な状態ではないので、そのバランス感覚が大切なのだと思います。
とはいえ、こういう風に考えられるのも心が健やかな日だけで、未だに過去と現在の自分との折り合いがつけられなくなってしんどくなる日もあります。きっとそういうことを繰り返しながら、だんだん本来の自分に戻っていくのでしょう。
今回対話をして、ヤングケアラーや自死遺族(特に自死遺児)が大人になってから抱えやすい問題を、予防も含めて早めに発見してケアしていくことができたら、という問題提起に行き着きました。
収録が終わってから気になって調べてみたのですが、教育現場でも子どもたちがしんどいときに周囲の大人たちに助けを求められるような教育もすでに始まっているようです。
ヤングケアラー、親の自死、虐待、家庭内で起こるさまざまな出来事を早期に発見し問題に対処することはもちろん重要ですが、それによって傷を抱えた子どもたちに対する長期的な(場合によっては大人になってからも)ケアの必要性がもっと世の中に周知され、家庭内での悲しい連鎖が生まれないことを祈っています。
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