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価値観の言語化、そして価値の変化を受け入れられるのか?
先日、YouTubeで「世界で一番孤独な日本のオジサン」の著者・岡本純子氏が出演している動画を見ました。
その番組で語られてきた中で、ハッとされる言葉がありました。
「日本のオジサンには、新しいことに興味を持ち、今まで知らなかった知識を学ぼうという人は、それなりにいます。しかし、新しい価値観を受け入れられる人が少ない」
他の作業をしながらだったので、確かそんなフレーズだったと認識したのですが、間違っていたら岡本さんごめんなさい。
ただ、その時に自分はこんなことを思いました。
・そもそもの自分の価値観って何だ?
・快・不快や興味のあるなし、そして考え方の物差し、これらは価値観にもとづいているのかも知れない。
これって、自分でもあやふやだから言語化ができなく、人にも伝えられないんですよね。
でも、その価値観で正しいとされる(自分がそう思ってるだけですが…)行動や判断をしてしまうと気付かされました。
あれっ?これが老害と揶揄される残念な認識の本質なのか?
自分では、何とか変化に対応しようとしているし、新しいことを吸収したいと行動にうつしていると思い込んでいました。
でも、自分の価値観は変わっていない。
これが私が抱えている閉塞感の正体なのか?
かなり妄想めいた話にはなりましたが、そんなことを考えさせられました。
そして、人格形成される段階で多様性に触れることの大切さを再認識した気持ちを持ちました。
皆さんはどう思われますか?
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