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【とある本格派フェミニストの憂鬱4パス目】「パトロクロスでさえ死んだのだ」とアキレウスは言った。

上の投稿でいう「企業や国家の様な主体の観察球面」って、なんとなく数学でいうリーマン球面を連想させます。難解な概念なので全然理解が及んでませんが、私が認識してる大体の動作はこんな感じ。

実は別サイトで「私がこういう風に認識している」リーマン球面概念を主体認識(Subject recognition)の説明に使えないか試みています。例えば近世において期間会計と文書行政の概念導入を契機として欧州に誕生した「(国体の保全に充分な火力と機動力を有する常備軍を中央集権的官僚制による徴税で賄う)主権国家体制」。国家ごとに開始時点の規模がまちまちな上、以降の成長や衰退が倍率でしか測れないので「揃え方が見つかった次元の部分比較」しか出来ない辺りが「単位元1が不定で、上限♾️にも下限0にも到達する事なく往復を続ける」リーマン球面の特徴と重なりそうに感じたのです。

上掲「複素円筒座標系からリーマン球面へ」

例えばある生物の大きさが昨年$${\frac{1}{2}}$$で来年2倍になる見込みなら$${2^n}$$のオーダーで、昨年$${\frac{1}{3}}$$で来年3倍になる見込みなら$${3^n}$$のオーダーで成長してると推察されます。計算上、比較年次を「前年(-1)」「当年(0)」「来年(+1)」としたかったのでこの設定。そう実は「一次関数y=x+1を接線とする冪乗関数の根」ネイピア数e(2.71828182…)はまさに両者の数値の中間に発見されるのです。

それにつけても冪乗関数の増率は尋常じゃありません。

2019年頃、過ちでプログラミングしてしまった「πのN乗のサイズ推移アニメーション」を供養がてら。当時はR使いでしたが、その後Pythonに。別にPythonが気に入った訳じゃないんだからね!! matplotlibやsympyやpandasが便利過ぎて手放せなくなっただけなんだからね!!

ただし企業や国家の経年変化はこんな風に豪快かつ連続直線的に進むとは限りません。というかそもそも、その登場の衝撃を間に受けた「人口論(An Essay on the Principle of Population,1798年)」のマルサスが発表した「人口爆発」モデル自体、百年待つまでもなくロジスティック方程式に論破されてしまう訳で、むしろそういう展開が無限に続くという認識自体が自然に反してる?

ロジスティック方程式

$$
\frac{dN}{dt}=rN(1-\frac{N}{K}),N=\frac{K}{1+(\frac{K}{N_0}-1)e^{-rt}}
$$

  • N=観測終了時間tx時点での生物個体数(マルサス式だと人口爆発)

  • N0=観測開始時間t0時点での生物個体数

  • K=環境収容力(その環境が維持できる個体数)。ほぼ定数扱い。

  • r=内的自然増加率(一個体当たりの増加率=その生物が実現する可能性のある最大増加率)。ほぼ定数扱い。

そもそも国家や企業にとっての「成長」とは、ただサイズが大きくなるだけの原始生物とは訳が違います。例えばマックス・ウェーバーはその「鉄の檻」理論においてその過程を外骨格生物の生涯に擬えました。①全身を鎧う甲殻は、身の周りの危険から守ってくれる防具であると同時に、形成された時点で概ね成長限界が設定された自動処刑装置でもある。②脱皮の都度生命を危険に曝すが、成功すれば新しい余命を得る。

一方マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ(Gone With the Wind,1936年)」の主要登場人物の1人レッドバトラーは大胆不敵にもこう豪語します。国には興る時同様、滅びる時にもチャンスが巡ってくるものなのさ」。確かに誰かにとってのピンチが、別の誰かにとってはチャンスとなる事もあるという、いつもの安定したアレ…

「近代国家への脱皮」に成功した国々

考えてみれば、多くの思想家が一斉にこの種の話題に飛び付いたのは産業革命を契機としての事だったかもしれません。とにかくそれは中世的すなわち「領主が領土と領民を全人格に代表する農本主義的権威体制」の支配下にある土地では成功のチャンス見込みがまるでありませんでした。ドストエフスキー「虐げられた人々」に登場するワルコフスキー公爵の様に自らの既得権益を守る事にしか興味がない因循姑息な伝統的インテリ・ブルジョワ・政治的エリート階層の方々が片っ端から成功可能性を潰して回るからですね。

それで産業革命は最初、その拘束のないスイスの様な部族連合がそのまま国家化した様なスイス、植民地起源のアメリカ、そして歴史的経緯から変化に強い英国などの農業からから緩やかに始まったのです。

一方、強引に国体を郡県制に移行したフランス。しかしフランス革命からナポレオン戦争にかけての時代に国民の5人に1人を失い、かつ財源が枯渇したせいで産業革命導入は最初難航したのです(大英帝国一強時代の始まり)。

何しろ産業革命導入には社会インフラへの融資が欠かせないのに、当時のフランスには(身分制的見返りが期待出来る)国王や教会にし貸さない(フランス・ロスチャイルド家など)宮廷銀行家しか存在していなかったのです。

この逆境に挑んで見事「フランスの近代国家への脱皮」を成功いさせたのが「サン=シモン主義者」ルイ=ナポレオン大統領(後の皇帝ナポレオン三世)だったという次第。

皇帝ナポレオン三世は「脱皮=限界突破」の為に(それまで敵対してきた)マラーノ(ポルトガル系/ブラジル系ユダヤ人)や(絶対王政時代に追放した)ユグノーの産業資本家を誘致。(英国におけるナイチンゲールの活躍と前後して)統計学に基づく計画的都市再開発を遂行し、労働者向け団地を充実し、フランス産の砂糖大根をベルギーの精糖工場に運ぶ鉄道を完成させ、赤旗法(1865年-1896年)制定によって大英帝国の自動車産業が停滞した隙を突く破竹展開に最初の原動力を与えたのです。
形成期フランス自動車工業の危機とルノー社の対応

そして、こうしてパッケージングされた「近代的工業国家への脱皮ノウハウ」を早速活用して「(経済学者アレクサンダー・ガーシェンクロンいうところの)後発性優位の法則」モデルケースに採用された「優等生国家」が二つ。

  • 1848年革命時点での農奴解放により産業革命導入条件を満たしたドイツ帝国(1871年~1918年)。皮肉に普仏戦争(1870年-1871年)勝利で勝ち取った賠償金を建国と社会インフラ整備の原資に充てる。

  • 上古の律令制導入期を思い出させるラディカルさで(つまり経験者として)版籍奉還(1969年)、廃藩置県と藩債処分(1871年)、秩禄処分(1876年)を矢継ぎ早に成功させ、無血で江戸幕藩体制から都道府県制への推移を成功させた大日本帝国(1868年~1847年)。

どちらの国も「脱皮」はその1回で終わりませんでしたが、とにかく「脱皮」なるもの、どんな形でも生き延びさえすれば次があるという話…

今でも現役memeとして生き残る井上雄彦「SLAM DUNK(1990年~1996年)」の名言。

「脱皮に失敗した」人々の末路

経済人類学者カール・ポランニー曰く「保守派の思想的足跡の支離滅裂さを笑うな。彼らにとっては生き延びる為の現状への最適化こそが最優先課題。だからどんな無茶苦茶な方向転換だって恐れず遂行する。翻って我々革新派は理論的一貫性に拘泥し過ぎる。それで時代の遺物になりやすい…」。そしてまさにこうして「国家の集団脱皮」が加速した1848年改革以降の欧州では「国王と教会の権威主義に宣戦布告した」旧世代の既存活動家達の多くが脱皮の必要性を思い付く事すらなくただただ死に絶えていったのです。

近世には欧州の絶対王政にせよ日本の江戸幕藩体制にせよ「主権国家体制(国体保全に十分な火力と機動力を有する常備軍を中央集権的官僚制による徴税で賄う構造)」にせよ権威を国家に一極集中し、それを家庭の様な末端まで行き渡らせる必要がありました。そこを突いて欧州の急進共和派や政治的ロマン主義者達は「(末端の家父長制を含む)国王と教会の権威」への宣戦布告を気取った訳ですが、1848年革命を経て産業革命の本格導入が始まると、さっさと旧アプローチに見切りをつけて別理論に乗り換えた「共産主義理論の父」カール・マルクス(Karl Marx, 1818年-1883年)や「社会民主主義理論の父」フェルディナント・ラッサール(Ferdinand Johann Gottlieb Lassalle, 1825年-1864年)を除いて、そのほとんどが歴史の掃き溜め送りとなってしまいます(元々資産家だったフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels, 1820年-1895年)も実家の工場を継承。引退して年金生活に入るまで雌伏)。現実のフィードバックが間にわわない理論の末路は大体そういう感じで「無限反復」なんて夢のまた夢…

上掲「こんにちは、そしてさよならナチズム」より

20世紀前半にはさらに「ナチズムとの対決」なんて一幕もありました。

「ナチズムの本質は詐欺師」と考えるとピーター・ドラッカーがその特徴を「正義の絶対的批判者の仮面を被りつつ、自らへの言及は決っして許さない」「対立を超えて問題を解決する代わり問題が解決しない責任を対立陣営に押し付け、解決しない問題についてひたすら怒り続ける」「被害者の立場に立つ事で相手の口を封じようとする」「いかなる間違いや失敗も認めず、非難も受け入れない」と要約した理由が良く分かります。
(中略)
アメリカに亡命したピーター・ドラッカーはそこまでかかる「ナチズムの本質としての詐術」が波及するのを恐れ、それをひっくり返した「正しく反省し正しく進歩する」「恐れず対立を超えた問題解決を遂行する」マネージメント理論の研究に着手。これを習得した経営者がナチズム的詐術上陸に対する防波堤となる事を期待したのです。この意味合いにおいてマネージメント理論は単なる経営技法でなくある種のイデオロギーともいえそうです。

上掲「こんにちは、そしてさよならナチズム」より

それでは、かかるイデオロギー性は現代、すなわち「(ChatGPTら大規模規模言語モデルが前提とする)分布意味論の時代」となった2020年代にはどういう風に姿を変えていると考えるべきなんでしょうか?

経済的な成功に無縁の人たちを気にかけないという点では、市場社会は、選民ならざる人たちを気にかけなかったカルヴァン主義の末裔そのものといってよい。たんに近ごろでは、イギリスの哲学者ハーバード・スペンサーに倣い、神学の用語ではなく、ダーウィン主義の適者生存なる言葉で表現しているにすぎない。市場社会の哲学が、成功できない者を見捨てられし者と見ることにおいては何ら変わるところがない。実に見捨てられし者とは、憐れみをかけることさえ神意に反する存在である。

ピーター・ドラッカー「企業とは何か(Concept of the Corporation
1946年)」より

実はここでいう「カルヴァン主義的選民思考」って、マックス・ウェーバーを激怒させた「(フランス革命前夜、王侯貴族や聖職者といったフランスの伝統的インテリ・ブルジョワ・政治的エリート階層のの間で密かに流行したという)俗流ジャンセニスム解釈(カルヴァンの予定説を歪曲し「死後救済されるかどうかば生前から外観に現れる」とし、要するに立派な身なりの王侯貴族や聖職者は全員天国へ、見窄らしい身なりの庶民は全員地獄に落ちる事が約束されているとこっそり囁き合う事で自己肯定感を得ようとした秘密思想)」同様に…


冒頭近くで紹介したマルサス「人口論(An Essay on the Principle of Population,1798年)」の出発点となった考え方でもあるんですね。

マルサスが『人口論』を執筆した当時、イギリスではフランスとの戦争や物価の高騰などの経済問題が出現しており、対策として救貧法改正の是非が議論されていた。またフランス革命の影響で、ウィリアム・ゴドウィンらの啓蒙思想家により、社会改良による貧困や道徳的退廃の改善の実現が主張されていた。このような情勢の中でマルサスは人口の原理を示すことで理想的な革新派を批判しようとしたのである。

上掲Wikipedia「人口論」より

マルサスの「人口爆発」モデル

$$
\frac{dN}{dt}=mN,N=(mN_0)^t
$$

  • N=観測終了時間tx時点での生物個体数

  • N0=観測開始時間t0時点での生物個体数

  • m=出生率b − 死亡率d。ほぼ定数扱い。

この式をドヤ顔で発表するマルサスの顔が脳裏に浮かんで辛い…なおこの考え方の欧州全域での流行を受けて自作に取り入れたのが、かの悪名高いサド侯爵(Marquis de Sade,1740年~1814年)。そこで用いられた「(主に貧民が)戦争や飢餓や飢餓によって適度に間引かれ続けなければ人類の文明はたちまち崩壊してしまう(それを防ぐ為に死亡率dを引き上げる/下げさせないのは正義!!)」なる論法は別に彼のオリジナルではなかったという暗惨たる現実…

なお、そのサド侯爵の伝記を発表した米国人作家ガイ・エンドアがその考え方を密かに盛った恐怖小説「パリの狼男(The Werewolf of Paris,1933)」がベストセラーとなり映画化もされた事から、こうした考え方はフィクション世界の悪役などの持論に継承される展開に。そう、ある意味下手な三流思想より寿命が長いのをどう考えるべきか…

完全にこの世界!! 問答無用でこの世界!!

2010年代Tumbrのmeme「ヒーローとして死ぬか、長く生きて悪者になる自分を見るかだ」。発言自体はクリストファー・ノーラン監督映画「ダークナイト(The Dark Knight,2008年)」におけるハービー・デントの台詞。ついでに解説しておくと題字の「パトロクロスでさえ死んだのだ!!」なるギリシャ英雄叙事詩「イーリアス」におけるアキレウスのセリフ、「戦闘さえ避ければ不老不死だが、戦えば予言が成就して死ぬ」なる戦争馬鹿には生殺しの宿命を背負った彼が「親友=愛人」を契機に平静を保てなくなり「死ななければ生きてるのか?」と考える様になって出陣し、そこで邂逅した仇のヘクトールに叩きつけるヤツです。

一方、そうやってマルサスの人口爆発モデルをフィクション世界に追いやった「正義の関数シグモイドS」がその後どうなったかというと…

なんと「機械学習の心臓部」活性化関数の大源流に。そうこのロジスティック方程式からロディスティック回帰が派生し、これが機械学習概念の大源流となったのです。

もしかしたら我々は「必要なタイミングごとの脱皮が存続条件」という考え方そのものからの脱皮を迫られている?そういえば前掲の経済人類学者カール・ポランニーも主著「大転換」の中でこう言ってます。「英国囲い込み運動については、賛成派と反対派のどちらに正義があったか問うても始まらない。衝突があった結果、その範囲が時宜に応じて常時暴動に発展しない規模に抑え込まれ続けた事だけが重要なのだ」。なるほど、それが「産業革命導入に際して脱皮を必要としなかった国の方法論」だったという分析なのですね。

ただしどんな時代にも何らかの形で「置き去りにされる人達」は出てくるもので、そういう人達への対策は必要。現代社会ではこんな話も…

技術の潜在能力とその現実の姿との間は、非常に衝撃的なものとなることがあります。仕事をより簡単にすると約束するツールは人々を仕事から自動的に排除するために使用され、接続性を喧伝するデバイスはユーザーを孤立感に陥れ、人間を星々へと導く機械は人類に災厄をもたらす可能性のあるロケット運送システムの親戚です。テクノロジーの「逆説的役割」について主張したジョセフ・ワイゼンバウムは、この矛盾を雄弁に物語っています。「科学とテクノロジーの冒険は、私たちをまさに自己破壊の瀬戸際まで連れてきた…そして同時に、多くの人々には前例のない快適さと自己実現をもたらした。結果として、私たちの中には、それほど公平な取引ではないと考え始めている者もいる。」

Islands in the Cyberstream: Seeking Havens of Reason in a Programmed Society

そもそも今の日本の現状は…どうやらそこから入らないといけない様なんです? そんな感じで以下続報…


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