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矢崎弾3 表現者と評論家

ランボオの三年間の詩作とは、彼の太陽の様な放浪性に対する、すばらしい智性の血戦に過ぎなかった。」小林秀雄「ランボオⅡ」1930(小林2002)

私が矢崎弾に対し興味を持ったのは、小林秀雄を尊敬するというロック評論家に対する批判的な感情が動機として大きい。それと背中あわせに、小林秀雄への興味が芽生えた。私はそれまで小林秀雄にはほぼ関心がなく、なぜかれが評価されるのか知らなかった。それまで私の興味をひかなかった小林がなぜもてはやされるのか、その理由を探ってみたいと思った。
私にとって小林秀雄は、なにより19世紀フランスの詩人アルチュール・ランボーについて粘着力のある虚像を作った人物である。かれのイメージとは違ってランボーは、『地獄の季節』(地獄の一季節)(1873)を書いてすぐ筆を折ったのではなかったし、ニーチェ、ドストエフスキーなどと同時代の、キリスト教、近代、社会主義といったものに向きあう、日本で言えば社会派の一面を持つ詩人だった (注1)。ランボーはマラルメから「途轍もない通行者」(「ランボオⅡ」)などと呼ばれ特に日本では小林によってその人物像にばかり注目が集まるようになるが(注2)、「イリュミナシオン」のような、時に音楽性豊かなあるいは印象鮮やかな、美しい詩の数々を残していった表現者でもある。作品のすばらしさを人物像のオプションにしていいわけがない。小林の時代には現在より正確な生涯が知られていなかったためしかたない部分はあるが、小林はいつも自信をもって断定する(注3)。そのためかれの描く像には未知の余白がなく、小林と等身大に矮小化される。私の考えでは、小林には矢崎の評伝を書いた渡辺憲先生の言うアクチュアリティ(現実性・今日性)が欠如しており、あまり指摘されることがないようだが、かれのビッグネームによりそう文章は、讃える対象に託して自己のロマンを過剰にうたいあげるもので、およそ教育教材にふさわしくない事実軽視の代物だ。かれの本質は現実と直接しない(2の注2を参照)一種の浪漫派である。かれの興味の対象はもっぱら自分のこと自分の目に映ることであり、詳述して事実を追及したり、あるいは逆に、対象と距離をおき客観性を保つということができない。例えは悪いが、宿主の高さをわが物にする絞め殺しの木のようなものだ。対象がいつのまにかかれ自身の姿に変わっている。小林のスケールに貶められていると言ってもいい。
ランボーの翻訳は多数出されているが、長い間もっとも簡単にアクセスできたのは岩波文庫版の調子ばかりいい小林訳だった(注4)。
私は昔よくいたランボー少年のひとりとして十代後半を過ごした。ランボーの作品の原文の美しさを堪能し、種々翻訳を渉猟するうち、小林秀雄の産みだしたランボー像が実際とは異なる虚像といってもいいものであると感じた(注5)。いまだに「イリュミナシオン」が「地獄の一季節」の後に書かれたことを知らない人がいるように、小林のランボー像は、日本国の評論家が描いたヒーロー像としてすっかり定着してしまっている。
小林の本質は、自己プレゼンテーションである。小林の有名な「十分に社会化した私」(「私小説論」1935)なるものは、文学的な道具立てに惑わされず読めば、プレゼンテーションされた自己像の回収を意味している(注6)。言ってみれば、『燃えよドラゴン』(『Enter the Dragon』1973)に出てくる鏡に映るたくさんのブルース・リーのようなものだ。
しかし、天才(注7)という措定を好む日本の文学関係者は、小林の引き出してくる表現者たちの、一見われわれの手には届かないと見える天才という権威を前にして、小林秀雄のスタンスをすっかり見失ってしまう。かれがプレゼンテーションを自己の社会性と代置する真の(自分ではなくその影に恋する)ナルシストであることを理解できない。自己の問題が疑似 ”社会化” し、小林の自我が他の権威を吞み込んで肥大化していることを認識することができず、小林を空洞の権威に祭り上げてしまっている。絞め殺しの木に覆われた姿を眺めその木を見たつもりになっている。
一部関心の対象は小林と同じくしながら、一般の文学研究者とは興味も関心も違う日本近代文学に親しくない私からすると、小林秀雄という、思い描く天才に自らの影を投影してその天才によって自己を語る評論家を権威に祭り上げるのは、悪い意味で文学的なものに見え、不健康な印象を受ける(注8)。天才という権威を愛好するのは、一種の事大主義である。近よりがたい(と想念される)天才という権威を借りることで、小林は粗略を隠し好きなようにイメージをつくりあげ大衆性を獲得したのだと思う。
矢崎弾の小林批判は、小林がほとんど取り合わなかったことで、文学研究者あるいは小林秀雄を読解する人々の興味をひかなかった。しかし同時代の、小林が一度は取り上げなければならなかったほどには知られていた文芸評論家による批判は、それだけで耳を傾ける価値があったのではないか。それを小林秀雄の権威化に手を貸した人たちは、マウント取りのように受け取り、等閑に付してきたのではなかったか。そのために矢崎を不当に貶めた一面もあるのではないか。私からするなら小林のようなアクチュアリティの欠如した浪漫派が日本主義をウルトラ化し(注9)、現実に直接しようとする存在を焼き払ったのだ。
歴史家は、あるジャンルに蔓延るポピュリズムに埋没させることなく、そこにある別の道の可能性を詳述し後世に残す義務があるはずだ。

(注1) 矢崎弾は『日本学芸新聞』1940年7月25日号の「中野重治の随筆」のなかで、中野を比較して評価するためにこう書く。「よく日本の作家は、文学を語る際はそれほどめだたない非常識性や陳腐さを、ひろい社会的事業や政治現象を語る際にはみぢめに曝露して了まふといはれる。そしてそれが日本の作家と西洋の作家との争はれぬ相異であるやうにさへいはれてゐる。」
(注2)例えば高橋英夫「小林秀雄を歩く3」「ランボーが詩的空間であれ、アフリカの広漠たる熱砂が連なる荒地であれ、その他今では探索のすべもない秘められた空間であれ、全く変らぬ歩調で疾駆して過ぎた大歩行者だったというなら、それと同じ程度に小林秀雄も大歩行者の一人だったと考えていいのだろうか。」(『カイエ』1978.9)
(注3)「彼が、ランボオから「地獄の季節」の見本刷を送られていた事実は判明しているから、彼はこの断乎たる文学への絶縁状は早くから読んでいた筈なのである。」(「ランボオⅢ」1947 小林 2003②)。実際には ’断乎たる文学への絶縁状’ ではなかった。
(注4)小林訳が放置されていた理由について、昔尋ねた仏文の研究者は、若い研究者が最新のイシューに興味を向けランボーなどに興味を持たないことをあげていた。
(注5)埴谷雄高は小林秀雄を迎えた『近代文学』の座談会で、小林のランボー訳を名訳であると評価しながらも興味深い疑問を呈している。「僕の云っているのは、誤訳などの問題ではなく、読者に一種の美への信仰性があるために、却ってその訳文が解らなくなる場合です。訳者が一つの境地へ入り、つまり、凝るのは好いと思うのですが、何か用語上または文章上の冒険を試みる場合、言語の伝統が確立していない日本では、なにかしら読者への悪影響が生ずることがある……。」「その場合、読者は訳文上の謎をなにか論理自体として信じてしまうことがあるんですね。そして、何か非論理的なものがなければならんという点へまで進んでゆく。」(小林2003②)。桶谷秀昭は秋山駿との対談で、埴谷はあまり小林を評価しないと(残念そうに)言っている(埴谷他1978)。
(注6)「前衛としての評論家」
(注7)表現者はそれぞれに天賦の才を持つが、’天才’ の意味するものはそのことではなく、不可侵な権威である。小林秀雄が求めたものは、様々な表現を可能にする才能ではない。そもそもかれには表現をするプロセスが理解できていなかっただろう。かれが必要としたのは ’天才’ である。
(注8)クセナキスに私淑したピアニストで作曲家高橋悠治の「「モオツァルト」読書ノート」における酷評を想起してほしい(『ユリイカ』1974 高橋 2004)。
(注9)「僕は、国家や民族を盲信するのではないが、(中略) 日本主義が神秘主義だとか非合理主義だとかいう議論は、暇人が永遠に繰返していればいいだろう。」(「戦争について」1937 小林 2003①) 

小林秀雄『小林秀雄全作品2ランボオ詩集』2002年 新潮社
小林秀雄『小林秀雄全作品10中原中也』2003年① 新潮社
小林秀雄『小林秀雄全作品15モオツァルト』2003②年新潮社
粟津則雄他『カイエ』1978年9月号 「特集・アルチュール・ランボオ」冬樹社
埴谷雄高他『ユリイカ』1978年3月号
『ユリイカ』1974年10月号「特集小林秀雄」青土社(高橋悠治『コレクション1970年代』2004年 平凡社ライブラリー)

※写真はランボー。(『カイエ』1978.9)


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