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父の存在

こんにちは、吉川です。

父が亡くなりました。
唐突な書き出して、ギャグみたいに見えるかもしれませんが、ホントの話。
そんな時期にこんな内容はどうか?とも思いましたが、気持ちを書き留めて置く意味でも、書いてみようと思います。

父の健康状態

父は製薬会社の営業で、食べるの大好き、お医者さんとの接待も苦にならないタイプだったのが影響してか?173cmで100キロくらいありました。
30年近くその状態だったので、当然健康状態は悪く、糖尿病、他。
薬の営業が毎月数万円薬を使っていました。(あるいみ営業の鏡か?!)

7年前くらいだったか、ボクが脱サラして、夢だった平日昼間からサーフィンに千葉に行っていました。
帰りにアクアラインの海ほたるでトイレ休憩を済ませて、さあクルマに乗るぞ!と駐車場を歩いていると、実家と同じ車種のクルマが。
トヨタ車だからたくさんあるよなーと思ってなんとなく通りすがらに車内を見ると、父親そっくりの人が。
よーく見ると、父親でした!なんと偶然!
車内で寝てるのでコンコン!として声をかけると、エアコンを19℃の寒い車内で汗でビショビショ。。。
何事?と思って聞いてみると、風邪をひいてインスリン注射を打っても血糖値がコントロールできずにまともに歩けない。
シックデイと言うらしい。
千葉のホテル(毎週千葉でホテル暮らしをしながら仕事して、週末自宅の横浜に帰る生活をしていました。)でフラフラで、車椅子を押してもらってなんとか車に乗り込んで、やっとの思いで海ほたるまで来たそうです。
っていうか車運転しちゃだめでしょ!!
ということで、ボクの乗ってたクルマを一緒にいた人に運転してもらって、ボクは父のクルマを運転して横浜に送ることに。
翌日、仕事を調整して(脱サラしててよかった!)、実家で父をクルマに乗せて、かかりつけの病院に。
即入院となりました。

その後も定期的な検診をしながら、心臓の血管がボロボロなことが分かり、血管を補強するステント手術なども行いました。
手術前は歩くのもやっとな状況でしたが、術後は普通の人より遅いくらいで歩ける様になりました。

そこから10年弱経て誕生日祝い

先月10月は、父の誕生日だったので、都内のホテルで鉄板焼きランチをしよう!と予定していました。
しかし、前日に体調が悪く病院に行ったら、翌日も検査のために来てほしいとなり、お誕生日会は延期。
それでも母の手作り料理を渡す予定だったということで、都内のボクの自宅まで母の運転(20年ぶりの運転だったようで、それも怖い。)で持ってきてくれました。
孫に会いたいのが本音だったと思いますが。
家まで来たけど、ピンポンがなってドアを開けたら外には母だけ。
父はしんどくてクルマから降りて部屋に来ることもままならないらしい。
やむなく子供(父からしたら孫)をつれてマンション前に停めてあるクルマの車内で十数分コミュニケーションを取りました。
これが最後の意識ある時の対面。

そして先週

先週は、いつもの仕事兼リフレッシュを兼ねての宮崎サーフィン&グルメツアーに一泊二日で行ってきました。
帰路の宮崎空港で、LINEの家族グループで父とやりとり。
前回とは違う箇所のステント手術ができるかどうか?を判断するための検査入院していたので、調子どう?と聞いてみたり。
父は、病院食の写真を送ってきたり、毎年恒例の年末の食事会をそろそろいつやるか決めないとね。なんてやりとりをしました。
宮崎空港を飛び立って、すぐにボクはウトウト。。。
そろそろ着陸かな?と思って寝ぼけながら携帯を見たら、母からお父さんが急変。ここ2〜3日が山場。心臓マッサージしても意識がない。とか。
まだ夢見てるのかな?と本気で思いました。

すぐに羽田から家族を連れてすぐに入院先の病院に向かいました。
病院ではチューブまみれの父と対面。意識はないです。
先生からの説明によると、お昼を食べたあとに急に苦しくなってナースコールをして、その後心停止。
心臓マッサージなどもしながらECMOに繋いで、心臓を動かし、肺を動かしている状態。
日曜の朝(説明を受けたのは木曜の夜)にまた病院に来て、それまでに気持ちを整理してください。心停止時間があったので脳が損傷している可能性が高く、自発呼吸の見込みは低く、回復は難しい。って感じの説明だったと思います。
正直この辺、現実感がなくてふわふわした感じで聞いていました。
一旦帰宅して、今日は寝ようとなりました。

翌朝病院からすぐ来てくれ!と電話があり、また都内から移動して横浜の母と合流して病院に。
血圧がどんどん落ちていて日曜までもたない。輸血しても体内で漏れ出ていてどんどん身体がむくんでしまうとかわいそう。
たしかに指先も昨日より冷たいし、たくさんあるモニターもアラームが鳴りっぱなしだし、何を意味してるのか分からない波形も昨日より振れ幅が小さい。

待合室で待つこと数時間、母、ボク、妻、弟の4人だけだったら暗い空気だったと思いますが、1歳の娘が走り回っているのが空気を和ませてくれて救いでした。
また先生に呼ばれて集中治療室の父の枕元へ。
もうこれ以上は無理だということで死亡宣告。。。
ここまで、家族LINEでお昼何食べた?ってやりとりからたった24時間。

亡くなったあとも大忙し

そこから葬儀社を手配して、病院から葬儀社に搬送。
葬儀社へ移動して葬儀の打ち合わせを4時間。
通夜は9割の人は今はやらない。家族葬にするのか?たくさん人を呼ぶのか?花はどうする?戒名は?お寺さんは来れるのか?火葬場での食事は何にするか?とか決めることがたくさんで悲しむ間もなく。
弟が告別式までの1週間実家にいてくれて、母と役所などに行ってくれているので助かります。

今は家族全員が父が亡くなったことがまだ体感できていないと思います。
冒頭に書いたように元々複数の病気を抱えていたので、長生きはしないと思っていましたが、そんなすぐに死ぬとは誰も思っていませんでしたから。

父の影響

でも、振り返ってみるとボクは父の影響はとっても大きいなと思います。
仕事を楽しそうにしていたので、仕事って楽しいものなんだ!と思って子供ながらに見ていましたし。
食べることが好きなのも、クルマが好きなのも、音響機器(実家には4人家族の冷蔵庫サイズのスピーカーが狭い家なのにあります)好きな父の影響でガジェット好きなのも父の影響です。
どっか食事にいくとすぐ店員さんにギャグを飛ばして絡みます。これはボクは恥ずかしくてそんなに出来ませんが、人を楽しませることが好きなのも父の影響だと思います。これは弟も同じ。
父がいての自分たちなんだなと強く感じます。
弟は身長170cmくらいで90キロくらいあるので、体型も父のようですし。

会社員から起業に向けて動き出したダブルワークの当初は、だいぶ心配掛けましたし、家族行事も付き合い悪くなりました。
ココ数年は旅行にも誘って行くことも増えて喜んでました。人づてに聞いたのは、旅行とか色んなところに連れ出してくれるから嬉しいと言っていたようです。
また結婚してすぐに起業に集中したので、10年経っても子供がいない状態から、孫が産まれた時はとっても喜んで「ランドセルを買わせないつもりなのかと思ったよ。」と、(そういう言い方しかできないの?!笑)言われました。
でも今ではある程度稼ぐようにもなってきて、父としても自分の息子夫婦が頑張っているんだな。と感じてくれていると思います。
なので、だいぶ親孝行は出来ているかな?喜んでくれているかな?と思います。
しかし、それでも後悔はゼロではないですね。
もっと会話する時間を取っておけばよかったかな?
もっと孫をあわせて上げたら良かったかな?
もっと旅行にも連れて行ってあげたら良かったかな?
とかはやっぱり思います。

これから

まずは告別式、その後の四十九日。
あと、母は横浜で一人暮らしになるので、ボクの近所に家を借りて住んでもらおうかとも構想中。
孫にもちょくちょく会えたほうがいいだろうし。

以前、聞いた話で、
亡くなったからと言って親孝行は終わるわけではない。だって天国から見てるんだから。いい仕事して人の役に立ちましょう!
と、確かにそうですね。

お父さんありがとう!
いっぱい生き方で見せてもらって、教えられました。
ホントに感謝してます!
これからも喜んでもらえるように頑張るね!

吉川康弘

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