見出し画像

「人間の繁栄」は求め続けるべきものなのだろうか?

個性的な発想と冷静な書き口が気に入って読んでいる男娼Dさんのnoteで、コメントしたい記事があったのでnoteにしました。

上の記事から、印象的な部分を引用します。

なぜ同性への恋愛感情が生まれるのか疑問に思う。
そもそも、同性愛者が存在しているから人間のあり方として当然の個性の一部であると判断いてしまうのは些か気が早いように思う。
当然、同性愛が存在している以上差別なく生活できるように計らわなければならない。そのためには周知が必要だということは言うまでもない。
じゃあ人間の繁栄はどうなる?疑うべくもなく、人類の繁栄を可能とするのは男女の性行為の賜物だ。誰がなんと言おうとその事実は覆せない。

私はこの部分を、「同性愛は生物としておかしいのではないだろうか」という考えと解釈しました。

男娼Dさんは、他の記事でも

同性愛は社会不適合の障害であるという考えをもっています。

と明言していらっしゃり、「同性愛=生物の本能から外れた異質のもの」という感覚でいらっしゃるようです。

なお、男娼Dさんの名誉のためにこちらも引用しておきますが、「障害」と思っていても「悪」とは思っていないそうです。

勘違いして欲しくないのは、障害だから悪という単純な公式では捉えていないということです。むしろ、障害と認めた上で違いを受け入れられる社会を作り上げていこうという考えです。

詳しくは以下のnoteを。

同性愛は生物の「人口過密の抑制策」なのではないか

ここからは私の意見です。同性愛は動物の世界にも存在するそうです。「動物 同性愛」で検索すると多数の例が出てきますね。

動物の同性愛にどのような意味合いがあるのか、様々な研究例があるようなので、各自で調べていただければと思うのですが、私が個人的に思っているのは「同性愛者を存在させることで『増えすぎ』を防いでいるのではないか」

自然界には生物の数のバランスを保つ働きがさまざまに存在していますが、同性愛はその中のひとつなのではと思うのです。(浅学ですが……)

そう思う理由のひとつは「カルフーンのねずみ」「Universe25」などと呼ばれているマウスの実験です。マウスを安全で人口過密な状態におき、どのような現象がおきるか観察したところ、しだいにマウスが生まれにくく・育ちにくくなり、やがて全滅してしまったのだそうです。

解説記事は検索でも出てきますし、本にも取り上げられているようですが、私が気に入っているサイトをいくつかご紹介します。

まずは感想を含めて実験の概要を語るブログです。

「寝椅子の下」というコラムでは一番最後の『失楽園』で解説されています。

東北学院大学のサイトにPDFが収録されている「都会の隣人を愛しなさい」という吉田信彌さんの論説でもこの実験について触れられています。

この実験でマウスたちが滅んでしまう原因は多岐にわたるのですが、その中のひとつとしてマウスの同性愛行動が見られるようになったというものがありました。実験ではオスがオスに交尾行動をする例だけが観測されていますが、交尾行動という表現でなかっただけでメスにもいたのかもしれませんね。

このマウスの人工的な過密状態と、現代の人間が送っている生活は似ていると感じます。安全で、食べ物に飢える心配もなく、周囲に同種の生物(人間)が多い。

もちろん、マウスの世界に起こったことが人間の世界にも起きるとは限りません。霊長類では過密状態になると友好を示す行動が増えるという研究結果もあるそうです。詳しくは以下のリンク先を。

ですが人類は繁栄しすぎて人口過密状態が長く続いていますし、医学の進歩により長命にもなりました。生物の本能として「増えすぎ」に歯止めをかける仕組みが働いたとしてもおかしくないと個人的には思っています。

なお、凶悪犯罪の増加なども私は「増えすぎ」の歯止めと解釈しています。動物で言うと共食い行動のようなイメージでとらえています。

「同性愛」は「自然なこと」?

もう一つ、私の意見とは全く違った切り口の記事も見つけました。「同性愛は多数の生物で当たり前に存在していた」という説です。

「同性と異性を見極めるのは大変なので、手当たり次第に交尾行動をしていたのでは」という発想は新鮮です。性別の見極めがつきやすい種もありますが、それは生殖行動の効率を高めるための進化と考えるのでしょう。

仮にこの説のほうが生物界に広く通用するものであったとしたら、「人間は生殖行動の効率を高めるため、男女の見分けがつきやすく進化し、異性愛を規範として生活してきた。その結果、安定して繁栄する生物になり生殖行動の効率を重視しなくてもよくなった」という理屈が成り立ちそうです。

とはいえ、旧約聖書に同性愛(男色)を好ましくないとする記述があるということは、その頃から存在していたはずです。同性愛者は現代になって現れたというわけではないんでしょう。むしろ「異性愛が正しい」とする規範のほうが後発だったのかもしれません。

そう思うと、私の「増えすぎ抑止策なのでは」という意見も的外れのようにも思えてきます。「もともと存在していた。広く知られ、認められるようになったことが最近の話なだけ」なのかも……。

私の意見のまとめ

長くなったので私の意見をざっとまとめます。

・同性愛は「数の増えすぎの抑止策」という生物の本能である可能性が考えられるのではないか。
・動物の世界でも同性愛は存在する。「生物として異端」という観点で語るのは難しいのではないか。

これは同性愛批判を見ていて私が思っていることです。

冷静に価値観を描くことの大切さ

最後に、男娼Dさんの話題に戻りたいと思います。

彼は「同性愛は障害だと感じるが、同性愛のことをよく知らない。だから同性愛者と接してみたくてセックスワーカーを始めた」という非常に興味深い価値観の持ち主です。

彼の言い分を見ていると、「理解できないもの」が「理解できないからといって、悪ではない」という公平で対等な目線を強く感じます。他者尊重の精神が根付いていらっしゃると感じます。

そして同性愛を抱く感覚は理解できないとしながらも、同性愛者との性的接触に拒否感が無いというのもまた個性的です。

私の偏見では、同性愛に否定的な人は同性愛に嫌悪感もあり「自分が対象になるなんて絶対にイヤだ!」という人が多いイメージでした。同性愛者と自分が性的接触することに拒否感はないけれど、同性愛が理解できないという方が、冷静にご自身の価値観を描き出してくださるのは、読み物として本当に面白いです。

私と男娼Dさんの間に価値観の相違は当然ありますが、それを感じながらも興味深く読める文章でした。人々の多様性を認める足掛かりになるようなnoteです。もっと広く読んでいただきたいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?