憲法という言葉

 
なぜConstitution~は、憲法となったか?
   建国法・国法ではなく、憲法となったわけ?
     
  コロナの猛威のために、一端下火となっている憲法改正論議であるが、この憲法改正、あるいは改変論議の中で、「現在の日本国憲法は、第二次世界大戦の敗戦伴い、連合国側、特にアメリカから押しつけられた、押しつけ憲法であり、日本独自の憲法ではないから、改正必要がある」というような主張が、その改憲の理由の一つ、しかもかなり重要な理由として挙げられる。
 現行の憲法に関して、改憲に積極的な自民党案では、「日本にふさわしい憲法改正草案とするため、まず、翻訳口調の言い回しや天賦人権説に基づく規定振りを全面的に見直しました」(http://isozaki-office.jp/kenpoukaiseisouankaisetsu.html)(自由民主党・日本国憲法改正草案解説)という解説がある。勿論、この点では前述の理由と、制定から六十年以上を過ぎ、日本社会の根本的な変化に加え、日本を取り巻く世界情勢の変化により、現行憲法の中身では国家運営がままならないから、という双方の理由が読み取れる。
 一方改正、あるいは改悪反対の意見には、「憲法改正派の意図が、戦争放棄条項とされる九条の改悪にある」というような、謂わば内容改定への反対意見である。
 どちらの意見も、一理あり法律の専門的な部分は筆者のような門外漢には、判断は難しいが、この憲法改正議論において、そもそも憲法とは何か、という議論においてこの憲法という言葉は如何なるものなのであろうか、という内容以前に言葉の問題が余り議論されていない点に筆者は着目し、検討を加えてみた。というのも、近代法の憲法という存在は、明治の近代化以降、日本社会に導入継ぎ足された多くの制度の一つで有り、謂わば異国の産物である。江戸の国学者が仏教を「異域の教え」さらには、平田篤胤の象徴されるような仏教への批判の根拠は、外来の思想である、という点が大きかった。日本の精神史や文化史の特徴は、外来のものを無条件に受け入れ、それに盲従する流れと、逆に自国の文化の盲目的な礼賛の両局面があざなえる縄のごとく、繰り返される。
 それは文明学的には、周辺文明である日本の宿命ともいうべきものであり、この憲法論もその延長に位置づけると、更に多様な議論が可能となるように思われる。とはいえ、このテーマは、次の機会に検討するとして、今回は憲法議論の基礎として、何故憲法という言葉が、constitutionの訳語として採用されたのか、その背景にある思想を推し量ってみる、という試みである。
 というのも、筆者はしばしば、宗教、自然という言葉で議論してきたが、これらの言葉は、日本古来の言葉(勿論、漢字も輸入品であるが)であると同時に、明治時代に翻訳語として新たに意味を付与された文字で有り、その呈は漢字熟語であるが、その意味は伝統的な漢字熟語とは別に、言語の意味を託されているという意味で、意味の二重構造となっており、さらにそれらが雑多に混淆し、独自の意味を醸成し、更に意味の多重構造化されている、という点煮、日本の近代以降の大きな文化的、というより根本的さらには広範な領域という意味で文明的レベルの問題がある、と指摘してきた。憲法もご多分に漏れず、謂わば言語レベルの混乱がある、と筆者は考えている。
 そこで、なぜ憲法と言う訳語が、Constitutionに当てがわれたのか、現代分かる範囲の検討を、非常に簡単であるが加えてみよう。

 Constitutionは、近代に於いて誰が用いたのか?

 さて、Constitutionは、当然ながら近代西洋の法体系の中で生まれた概念を以て制定されたヨーロッパ近代の法体系であるので、故にその基本は西洋文明、就中その中でもキリスト教的な考えに根ざしていることは、否定できないであろう。勿論、その起源は、ローマ文明にあるであろうが。十九世紀の日本社会が導入を目指したものは、近代法としての憲法であったから、その点は考慮が必要であろう。
因みに、憲法は、漢字の憲と法であるが、漢字の元意は、白川静の研究によれば「憲」の上部(心をとった部分)は、害の字形に含まれている大きな把手のある入れ墨用の針、これで目の上に入れ墨する字が(「憲」の心をと他部分)、すなわち刑罰の意味であるから、後に法の義となった」(字統)あるいは「おきて、法則、手本、規範」(詳説漢和大辞典)であり、「法令、法律」(菅子)「手本」(詩経)(「全訳漢字海」三省堂)という意味とされる。つまり、憲法の憲は、法(この文字も白川氏によれば大変不思議な意味を起源とするが、要は犯罪者を処罰すること、「古代的な刑罰の法を原意とするが、のち刑罰の法・法則・法師絵の異となった」(白川)という。つまり、社会や国家などの共同体における刑罰の定めということになる。その意味で、憲も同様な概念となる。故に、「憲法」という熟語が「国家のおきて・決まり」(「国語・晋」という意味で用いられる。因みに、「憲章」は「手本として明かにする。(「中庸」)制度、決まり(「後漢書」)というのが、中国的な用例である。
 このように見ると、憲法という言葉は、国家のおきてというような意味もあるが、特段特別な国家の根本的な法を意味している、というわけではないようである。
 因みに、聖徳太子の「憲法十七条」が用いた憲法以外には、殆ど日本に用例がないようである。それを表わすように日本最初期の英和・和英辞典「和英語林集成」(ヘボン著)に於いてConstitutionは、上海発行の第一版(1867年:慶応3年)Sei-ji,umaretszki,sho~,shoai,sheishitsz,mijo.続く第二版(1872・明治5年)でも、sei-shitsu,
Kumi-tate,jin-tai,sho-ai, とあり、漸く seitai,horitsu,okiteと法概念との結びつきが現われてくる。その後第三版(1886年明治19年)では、上記の意味の他に、horistu,
Okite と記されている。また日本人による最初の英和辞典とされる通称『薩摩辞書』(和訳英辞書)には、組立、処置、気質、政体、政事、そして国法」とある。一方、開国による言葉の混乱を学術レベルから統一することを目指して井上哲次郎等東京大学の教授陣が編纂した『哲学辞彙』(明治14年刊)には、Constitutionの訳として、「憲法」のみが表示されている。
つまり、明治初年から明治14年の間に、Constitutionは、憲法という訳が固定化したことになる。勿論、井上等が東京大学というい明治政府の最高学府の権威を背景に、定めたのであり、以後Constitutionの法関係の訳においては、憲法が第一義となる。
 では、Constitutionを憲法と訳した最初の人は誰か、ということが次の問題である。
この点は、有名で有り、明治憲法の策定にも深く関わり、日本の法律の大立て者とされる箕箕作麟祥(1846年- 1897年)である、彼は、日本における「法律の元祖」と評される人であり、一般には彼が明治6年にフランス語のConstitutionから「憲法」と明治6年(1863)に訳出したとされる。しかし、筆者の調査では、それよりも早く明治5年の仲冬の署名がある「萬國新史」(最近布告された)の「第15回ロシア附ポーランド」において、それまで「国法」「憲章」「國綱」等と用いていたConstitutionにあたる言葉を憲法と明示した最初であろう。そこには「ついに一概憲法をせいていしたり、けだしこの憲法によるポーランドの王位は、従来、・・・」(20)。以下の数字は同書引用部のページ)とある。(但し、筆者は原典ではなく、復刻なのでコロナが落ち着いたのちに、原典に当たる必要がある。)その後、第十六回「アメリカ連邦」でも、千七百八十九年代九月、各邦の代理者あい会集して著名なるアメリカ國憲法を議定し・・・。この憲法は律法行政司法の三代権を明らかに画分し、・・・ゆえに近時欧米各国の憲法中、最もその宜しきを得て、正理に合しあるものなり」(註20に同じ。136 ページ)などと、書いている。 
これ以後憲法という言葉で、ほぼ統一されている。これが壬申(1872)の年、明治五年(この時の明治五年は旧暦)の仲冬である。仲冬は陰暦の十一月で、現在の十一月から一月にあたるので、壬申五年の仲冬とは、明治五年から六年(一千八百七十三)の冬を指す。しかし、旧暦表示の明治五年は12月3日を以て、新暦表示の明治6年正月となった。つまり、この時太陰暦から太陽暦に変わり実質的に旧暦の12月は3日しかない。しかも、仲冬は旧暦11月であるから、壬申五年の仲冬(旧暦の11月)は、太陽暦では、一八七二年12月を意味することになる。この計算が正しければ、一般に知られテイルよりも少し早くConstitutionの訳語として憲法は世に出たことになる。

 箕作は何故、Constitutionの訳語に憲法を選んだのか?

 さて、次に問題となるのは、そして、聖徳太子の憲法と関連することは、なぜ箕作が憲法という訳をConstitutionに当てたのか、ということである。
 このConstitutionは、当初その原意に近くというより直訳的に正確に訳されていた。箕作も、国家律」(註20に同じ。15ページ)・国法(同20ページ)国綱(同50ケージ)憲章(同96ページ)「(フランス帝国」憲章(同103ページ)」と自ら憲法を用いる前は、用いている。
しかし、この『萬國新史』には、聖徳太子の憲法十七条を彷彿させる言葉が、随所に見られる。つまり権力者が法を勝手に歪め専横するために、「下管理小吏も皆ならって、・・その私欲をほしいままにする」(同15ページ)とか、「ナポレオン、あえてまた他の王政党を嫉悪するの念なく、冤を洗い、木偏に王(マガレル)を伸ぶる」(同45ページ)のような表現である。これらは彼が、聖徳太子の「憲法十七条」の条文に親しんでいたことを表わす事例ではないか、と思われる。ともあれ、西洋の法文化に明るい箕作がConstitutionそのラテン語の原語はconstitutiōとされ、「状態、有様、条件、配置、構造、組織、体制、制度、憲法、法令、規定であり、さらに,constitutumでは、「協定、契約、約束、申し合わせ」である。Constitutioは、constoという動詞の名詞形で有り、動詞の意味は、「位置する。しっかりと立つ、揺るがない、止まる、というような意味である。
つまり、Constitutioは、国家の基礎をしっかり立てて、揺るがないようなする法という意味である。とすれば、それは国法や國建法などと訳する方が自然であろう。事実福澤諭吉は「律例」、加藤弘之は「国憲」、井上毅は「建国法」と訳したが、箕作は「憲法」と意訳したのである。そこに彼の単なる翻訳的な文明伝達者とは異なる一種の日本人としての矜恃をみることが出来なであろうか。同時に、それはその後の憲法十七条や聖徳太子の評価をある意味で国家主義、ナショナリズム的な近代的解釈へと導いた原動力であった。。
つまり、日本にも形態や表現は異なるにしても、国家の理念や基礎的な方向付けを定めた国家の法がある、という強い自負心である。いずれにしても憲法という言葉をConstitutioに宛がったのが「近代法の父と」と評される箕作であった点が重要である。この点は、以後の太子の評価の全てに通じるのである。いわゆる西洋化に負けない自負のよりどころとしての太子、和魂洋才の先駆者としての聖徳太子である。勿論、太子の時は和魂隋・唐才であるが。
 憲法十七条か十七条憲法か?

その後のことは、本題とは多少離れるので、詳説は他に譲るが、憲法制定が本決まりなると、徐々に日本書紀の「憲法十七条」という表記が「十七条憲法」となり、明治帝国憲法と憲法という文字を共通項となるように表記される。これは、「憲法十七条」の相対化で有り、明らかに明治憲法との関連で、というよりも明治憲法のある意味で正統性を内外に示すナショナリズム的な意図が感じられる。つまり、憲法という文字は、箕作が敢えて選び、それをこれを法律として固定化することで、明治憲法の文明史的な意義を、聖徳太子以来の伝統ということで権威付け、その相乗効果であらた太子像が形成されていった、ということではないだろうか。
 
因みに 、明治憲法の制定直後は、まだ「憲法十七条」という日本書紀に即した表記が用いられることが多っかったが、明治憲法が普及し出すと「憲法十七条」が「十七条憲法」という表記が多くなり、現在では、寧ろ「十七条憲法」という表記が多く見られる。(21)
それは、単なる表記の問題ではなく、極めてイデオロギー的な背景があると思われる。つまり、これまでもしばしば述べたように、憲法の存在を聖徳太子の時代にまで遡及、我が国には七世紀の初頭以来、憲法が有る静養に負けない、あるいはそれ以上の文明子かkなのである、という強い文明国家意識である。故に、憲法一号の十七条憲法、第二号の明治帝国憲法という意識となる。更にこの傾向は、昭和憲法が並記されると、平和思想の憲法というようになってゆく。いずれにしても憲法という文字が肥大化し、本来の意味以上に国粋主義的な、あるいは自己陶酔的な意味を持つようになる。当然その逆の憲法批判も生まれるが、そもそも憲法は、箕作にしても、聖徳太子といえども、外国を模倣したものである以上、固有の憲法という発想は、過剰となる、
しかし、この古訓である「うつくしきみのりとおあまりなな」という名であれば、「あえてとおあまりななつうつくしきみのり」とはなり難いであろう。つまり、聖徳太子の思想により近似するためには、この古訓も大きな価値がる、ということである。
 この一例からも推測できるが、一般に言われるように、原文を直接検討するとは云っても、意外に近代以降に形成された太子像や太子評価により太子理解は、近代以降に形成された概念によるものがあり、、そのバイアスの集成のために、古訓を活用することは、十分意味があるのではないだろうか。
 以下次回
 尚、この文章は筆者の論文の一部である。2021年3月刊行予定